召喚魔法と異界の越境と その2

 名前隠してもしょうがない気がしてきた。元ネタ。

川邊一外「ゲームシナリオのドラマ技法」新紀元社2005

FFXのストーリーは、理を優先する「技術者の夢」という気がします。

>理性先行は、死愛好( necrophilia )を一つの特徴とします。

>要は、ゲーマーというよりは、技術マニア的発想で貫かれているのです。

 えー、ネタバレしないと話が進まないね。舞台となる世界では、放置しとくと、死者がそこらじゅうを歩き回る。しかも、生きてる人間と見分けがつかない。ヒロインはそういう死者の魂を浄化するシャーマン。

 で、上の書では、死者が当り前のように生者の世界に溶け込んでいる描写に「都合がよすぎないか」と苦言を呈する。

 この意見は常識的なのだが、多分、若年世代の感覚はもうちょっと先に行ってしまっている。死者と生者が普通に交じり合う世界のほうが「リアル」と感じるヒトが増えてるのだと思う。それに対して「理性先行にすぎる」という批判は今でも十分に成り立つと思うし、むしろ言わないと拙いだろとは思うものの、基本的に頭いいヒトたちにはそういう声は届かないので、折衷案を考えていかないといけない。

 FF10 に関して言えば、「死」が現実世界の死とあまりにも様相が異なるにも関わらず、ドラマを盛り上げるための手法としての現実世界の常識を基盤にした死の意味をそのまま適用したあたりで、失敗していると言える。死後もなお現世に留まり生者と共にそれまでと同じ生活を継続できるのであれば、そのような「死」は私たちの物語を決定づける死ではない。実際、キャラクターの服装や演出からして、シャーマニズムが息づいているような世界を原イメージに、東洋思想かぶれのようなことをやりたかったのだと思う。

 世界観だけを用意したものの、死に対する受け入れ方にまで手をつけなかったのが、捩れの原因のひとつである。「死」が何かドラマティックな要素であり続けるためには、それなりの価値観の共有を要する。「リアル」を追求するなら異なる世界の異なる住人にその価値観を要求できるはずがないが、そこで旧来の「共感でき、盛り上がるドラマ展開の原則」をただ適用してしまったために、違和感が生じてしまった。もし異世界の設定の手法が「リアル」であるとすれば、原理主義的には正すべきは「盛り上がる人間的ドラマ展開」のほうである。

続く。