召喚魔法と異界の越境となんやかや

 先日来からの懸案のFF10。

 FFてのは、歴代追っかけてくと実は「ファイナル」て名前に妙に忠実な話が多い。つまり「もう失われた冒険の世界の最後の輝き」みたいな。ネタバレになっちゃいますか。
「世界を救う話」なんだけど、ドラクエ世界ではゲーム世界の前の世代にも後の時代にも、どっかで悪の魔王が何度も出てくるようなイメージが最初の3部作で定着してると思うんだけど、FFって作るたび異なる世界を舞台にして、つまりプレイヤーが救った世界はちゃんと救われて、タイトルの継続性については、チョコボやバハムートやアルテマウェポンの使いまわしだけだったりする。

 これは当然ながら大変面倒な話で。先日もノベルエロゲーでは本編の続編が作れない(だから、ファンディスク商法という不思議な商売が出てくる)という話をしたのだけども、ゲームという題材の、この素材を使い切ってしまう性質は、例えば名探偵が滝壺から復活して使いまわされたりするラノベみたいのとはキャラクターや世界の扱われ方が全く異なることを示しているのだが、さておき、エロゲーのファンディスク商法と同様のスピンオフタイトルがFFの周囲に山ほど出てるのも、まあ、むべなるかなというか。

 なので、「イヴァリース世界」をFFTから使いまわしてる XII のシナリオは、かなり気になるんですけどね。

 さて、「世界を救う話」と、なんか人間的な感動できる話とを組み合わせるてのは今はもう見慣れてるから当り前だし、文句言うのもアレだが、結構無理がある、というところで話が本筋に。

 今回、FF10での「死」の扱いを巡って、とあるシナリオ関連の方が首をかしげていたのだが、えー、このエロゲー界隈で言えば「悲劇は可能か」みたいな話で。あるいは「弔いの物語は可能か」とか。
 んで、「これじゃネクロフィリアだ」とか「死への欲望ってのは行き着くところナチスですよ、要するに」みたいな、まあ、カッコイイ死に方マンセーなモノをごく普通に大量消費しなれてる層にとっては、何を問題にしてるのか判らないだろうなあ、みたいな言い方でもって、疑問を呈してられて。

 ごく単純に言えば、異世界ファンタジーを題材にした段階で、やれることは相当限定され、世界を救えませんでしたとか成り立たない。とはいえ、今はそんな原理主義が通らない世の中なので、ちゃんと考えないといけない。

 続く。