召喚魔法と異界の越境と その9

 FF10ネタバレ。

 こうして見た場合、主人公ティーダとヒロインのユウナの「泣けるエンディング」は意味合いが多少ずれてくる。単なる愛しあう二人の悲しい別れであれば、それはユウナレスカの敷いたレールの上を走っているのと変わらない。

 実質、ティーダの回想こそが彼が自分の消滅を告げるシーンであり(「オレの物語」はそこで途切れる)、OPムービーにおいて、ユウナや他の仲間達はティーダの消滅を受け入れる段階に到達している。
 あるいは、ティーダは最後の戦いの直前においても「これが終わったらオレは消える」と仲間に向かって明快に宣言しており、ユウナはその際に明確な反発や戸惑いをみせない。最後の二人の別れのシーンは「悲恋」というよりは、お互いに覚悟の上の、本当の最後の惜別として読める。

 つまるところ今までの流れは全て「弔いの物語」であった。そして飛空艇を入手した以降の、世界を駆け巡る「オレたちの物語」は、そのまま「最後の幻想物語」となる。

 もちろん、大概のプレイヤーは上記のような「一本道シナリオ否定の一本道シナリオ」などという無茶な読みはしない。「シナリオなどどちらでも良い」か、「シナリオを楽しむ」の、どちらかの態度で享受するのが妥当であり、そこに上記のような解釈を投げ込んでも、前者においては「それなら最初からムービーなど入れるな」となり、後者においては「感動のドラマを楽しんでるのに水を差すな」となる。戦闘で99999ポイントのダメージを叩きだす行為への熱中に対して、奇妙な悲しみの色合いを見出すほうが異常だ。

 結局のところ、これらは常にどっちつかずである。それは「 Final Fantasy 」であることから来る必然でもあるし、RPGという「数の物語」に「一本道シナリオ」を導入した結果の必然でもある。その必然は辻褄を合わせようとするほどにプレイヤーを裏切らなければならない必然でもある。

 例えば、エンディング終了後の「思わせぶりで意味のわからないシーン」は、直前の「二人の別れ」に対する態度留保に他ならないが、直前のシーンを「感動の悲恋の結末」として受け取ってしまえば(ムービー演出的にも、そう受け取るのが自然)、そのような留保は到底受け入れられるものではない。

 そこには常に無理がある。ドラマの必然という理を押し通したための無理、RPGのジャンルを見誤ったがゆえの無理だ。

続く。