召喚魔法と異界の越境と その11

 RPGビジュアルノベルと異なり当面ゲームシステム優位で語られ続け、FF10のシナリオの良し悪しを議論の素材として取り上げるのがせいぜいシナリオ論の研究者に限られるであろうことは、健全な状態と言える。

 しかしそれでも、RPGにおいてシナリオが必要とされ続けていることに変わりはない。映画の論理でないゲームシナリオの論理が必要だ。

 例えば、「ゲームシナリオのドラマ技法」ではFFシリーズの「画面の暗さ」を常に指摘する。しかし、舞台芝居において顔を白く塗り目に隈取りをほどこす営為をRPGに置き換えて見た場合、役者の表情に相当するのは画面内のダメージ数値がハッキリ見えることである。白抜きの数字がよく見えない「明るい画面」は、FFには必要ない。

 あるいは、シナリオにおける「父」「母」の扱い。当初の実力のない(LV1)主人公が「魔王を倒す」といった社会的使命を引き受けるにあたり、父が勇者であるという血統は説得力を持つ。その「父」を、一方はPC、一方はバトルで倒せるボスキャラの一つとして設定したFF10は、ゲームシステム上の「父」の扱いにおいて成功していると言える。「ティーダの物語」が終わる段階で父を倒していない点に注目すべきだろう。「父」の機能は、冒険のスターターとしてのみ機能するが、以降はプレイヤーを一本道シナリオに縛り付ける枷だ。
 また、「母」は恋愛物語の側面でのヒロインの機能であることが、ヒロインのユウナと母役のユウナレスカとの名前の継承に端的に示される。敵役のシーモアとユウナとの結婚式をPCらは阻止し、ユウナをヒロイン=母にさせまいとする。さらに、母の機能をモンスターとして倒すことで、ユウナもまた恋愛物語のヒロインから解放される。PC(冒険の旅の仲間)であることと母であることは矛盾する。

 そしてまた、コンピューターRPGの世界を基盤とした社会構造が私たちの現実の一部であるなら、召喚獣の存在する「夢」「異界」は、もはや夢でも異界でもなく現実なのである。
 そして死者も召喚される幻獣と同一とする視野は正しく、死は壁や断絶ではない。死を超越した世界を現実の一部とするなら、死や殺人を無条件に回避すべき何かだと見なす態度こそが妄念であり「悲劇」を再生産する悪意に他ならない。RPGというジャンルにおいては殺人事件の犯人の尻を追いかけ回す行為は世界への呪詛である。

 続く。