続き

 ここには「新しい何か」は、ない。
 超能力者はいない。今とは違う新しい世界へダイブとか一切ない。システム的に新しいことをやってるとか、実験的とか、そゆのもない。温故知新てわけではなく。そこらに当り前に転がってるものを、当り前であるまま持ってきただけ、というのが最も妥当な言い方だ。何せ他の似たりよったりと差別化してナンボな縮小傾向市場エロゲーのタイトルに、今さらすぎる「青空」とか「約束」とか使ってるんだもの。適当な略称を思いつこうにも「青空」と呼ぶと他のソレっぽいエロゲータイトルと被るから使えない、それで苦し紛れに「こんにゃく」などと名づけなければならなかった、てエピソードが物語るのは、形骸化した日付システムの制度的な「日常」ではなく、もう少しラジカルな意味合いでの「日常」との親和を本作のスタッフが望んだ、ということだろう。

 そして上記とあわせて。ノベルエロゲーは、幼馴染において最もラジカルに駆動する。いや個人の嗜好じゃなくてね。
 「改めて努力せずとも、かわいい女の子が何人も近寄ってくる都合のよさ」がノベルタイプのエロゲー、ギャルゲーの基盤である。女の子とHするほど仲良くなるまでの努力がゲーム攻略の難度と連結しているのがノベルでないエロゲーの基本だとすれば、その難度を取り払ったのが複数の女の子に囲まれるノベルエロゲーであり、女の子を追いかけることと女の子の背景にある物語を読み進めることが一致するノベルエロゲーの物語は、男の主人公と女の子の間の距離の近さを絶対的な基盤とするしかない。最も近しい距離である幼馴染が多用されるのはそのためだが、一方で、それほど近しい距離にある幼馴染と男の主人公が、長年つきあいながら物語が開始されるまで恋人の関係に至らなかった(場合によっては男は別の女性へと流れる程度の関係)ことと、それなりに短い期間の記述でHできる関係にまで持ち込まなければならないこと、二つの間にある時間の流れる速度差の矛盾からくる必然的な破綻、断絶を、どのようにして記述するかが世界の極限となる。