どちらか一人しか残れない

 顔と画面の関係の話の続きです。

 セカイ系という言葉が流行りました。(今も、当り前に使われるようになりました)

 で、エロゲの、特に女の子が死にそうになったりして泣いて感動するようなのについても、どれも全部まとめてセカイ系というレッテル貼りが行われました。その結果いろんなものが見えなくなったのですが、その最大の誤認に「キミとボクの二人だけのセカイ」という捉え方がありました。

 セカイに二人以外の誰も見えない狭い視野でのお話なんて、なんて自分勝手な連中なんだ! などというのが操作されるとこのイメージでしょうか。

 でも、ノベルエロゲーてのは、そんなもんじゃなかった。鍵ゲーには二人分の座席なんて用意されてなかった。

 セカイにボクかキミか、どちらか一人しかいられない。

 そーゆーのが葉鍵ゲーであるところのノベルエロゲーの基本的な構成でした。いや、そんなの、鍵ゲーのシナリオ読めば一発で判るんですけど、大概の人はシナリオなんて読まないので。顔の輪郭がフレーム・構造であるということは、言ってみれば観光地の顔をハメこんで記念写真をとるボードのように、定員はその顔穴の一名だけです。定員一名の椅子取りゲームを繰り広げた果てに、なんか言葉尻で誤魔化して二人ばかし生き残ったように見せかけるというのが、この手の恋愛ゲームの基本的な作りでした。小説という形式をゲームにしているのですから孤独なのは考えてみれば当り前ですが、男女がセックスするようなゲームが「キミとボク」でないわけがないという思い込みがあって、なんとなく「キミとボク」という言葉がイメージ付けられてしまった。そこから話を開始しようとして間違えつづけてるなぁ、というのがセカイ系なるものを設定してしまった向きへの雑感ですが。

 んで、「二人だけの世界なんて間違いだ>一人になる>一人だけじゃダメだ>二人で生きていこう>(繰り返し)」の無限ループという結論と、「一人」と「二人」の間に構築されるべき諸々(エロゲーですから当然あんなことやこんなことです)を全部スルーして、むしろ内容を考えるための根拠をも持ち得ないまま全否定して、「一人」と「二人よりたくさんの間の人間関係」へと、ぴょん、と飛んでいってしまう結論の、二つの極端なセカイに飛びついて、そも「キミとボクの二人」とはどういうことかの考慮が丸ごと抜け落ちたのでした。