メモとして

るりあ先生とこのリンクから飛んで、「ひぐらしアニメ」への言及へ。

以下引用。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html

>06/08/28
>それと、ぼくはゲームをまったくやらないのでよく分らないのたけど、『涼宮ハルヒ』のような、書かれ、読まれるものとして最初に設定された一人称と、『ひぐらし』のような、ゲーム内の世界とゲームプレイヤーとのインターフェイスとして最初に設定された一人称とでは、かなり感触が違うものだ、と感じた。何というか、『ひぐらし』では「語り」よりも「(世界)構造」の方が常に強く意識されるような感じだ。(どちらも、「語り=時間(展開)」という要素が弱いのだけど、その弱さの有り様が違っている。)

>06/09/22
>この物語はゲームが元になっているためか、(少なくともアニメ版では)主役の男の子を通してしか、男の子の視野でしか、物語世界に触れることが出来ない。つまり作品世界全体が男の子の内面的世界としてしか受け取れない。これはたんに一人称であるというのとは違う。一人称で書かれた小説だからといって、話者=主人公以外の登場人物や世界のすべてが、話者の内面に還元されてしまうという感じをもつわけではないだろう。あるいは、徹底して男の子の欲望に奉仕するように造形された美少女キャラばかり出て来るアニメだとしても、そのキャラクターたちが、作中のたった一人の人物に対して存在する、という感じは受けないだろう。むしろ通常それらのキャラクターは、観客たちに向けで、観客たちのために存在するはずだ。
(ラムちゃんは、あたるのために裸に近い格好をしているのではなく、『うる星やつら』の読者=観客のために、その視線に向けて、そんな格好をしているのだ。)しかし『ひぐらしのなく頃に』に出て来る、あまりに類型的で薄っぺらな美少女キャラたちは、あくまで主役の男の子のために、彼の視線の対象としてのみ存在しているかのようだ。(ぼくはゲームをやらないので分らないのだが、ゲームのプレイヤーは、この男の子と完全に同一化してゲーム空間のなかに入り込むのだろうか。)この感じが、この物語世界に独自の閉塞感を生んでいるのかもしれない。この(世界への入り口の)狭さは、ぼくにはかなり息苦しい。

引用終わり。