続き5

いいかげん長いので終わらせよう。

さて、ダラダラ書いたが、こうした路線変更が作品にどのように影響を与えたかを考えてみる。

路線変更後のハッピーエンド展開には、現実の政治の腐敗や役所の腐敗への告発が含まれている。また、解答編では作者の後書きが極めてメッセージ性の強いものになっている。
この作者の後書きをそのまま鵜呑みにするのでは面白くない。作者の政治的メッセージについては嘘は言っていないにしても、言いたくないことを隠すためにそうした政治色の強い発言を繰り返していると見るべきだ。つまり、路線変更のカムフラージュである。
ご都合主義的なハッピーエンドを用意するために、途中の障害として役所の怠慢や利権政治といった「リアル」な要素を導入するという手法は正当なもので、作者のバランス感覚が優れている証拠とも言えるのだが、しかし一方、そうした「リアルな悪」が、それまでの「ひぐらし」のカラーにそぐわないのも事実である。昭和58年という年代設定に対して時代考証がかなり杜撰なのは繰り返し指摘されている。「ひぐらし」は、基本的には細部の描写のリアリティを問題とする話ではない。ファンシーな立ち絵でも判るように、どちらかといえばイメージ重視のアバウトな作りだ。しかし、話を日本の政治利権の中枢に絡めるとなると、時代考証などが問題となってくる。昭和58年と言えば首相は中曽根氏、作中に出てくる首相の描写には、あまりにそぐわない。
ハッピーエンドな結末に道筋をつけた結果、それまで放置されてきた「リアリティのなさ」が浮き彫りになってしまい、結果として説得力を欠くことになったのである。

次に、8本目「祭囃し編」での作者メッセージ。歯切れの悪い言葉が並ぶ。この段階で、「祭囃し編」の結末に対し、相当な不満を抱えていることが見て取れる。特に、一人を「犯人」と名指してオチをつけることへの警鐘を鳴らし続けていて、これがどうやらファンディスクのダムに沈む展開に繋がっていくらしいのだが、要するに、4本目「暇潰し編」でなされた路線変更の結果は、作者からすると失敗に終わったと認識されたのである。

しかし、完全にダメというわけではない。言いわけがましさが結果的に各登場人物に対して目配りの行き届いたある種の丁寧さに繋がっていて、結果的にではあるが、最低限度の常識的・良識的な態度を示しえている。

とりあえず切り。