続き

作者側からすれば、5年連続殺人事件の真相を暴き、かつ生きて雛見沢から脱出する、というのが本来のシナリオの筋書きであったろう。というか、発想の枠組みが「クトゥルフの呼び声」などの現代ホラーもののTRPGのキャンペーンシナリオだと考えれば、この厳然たる差別についての殆どの説明はつく。クトゥルフなど洋モノのTRPGキャンペーンシナリオではPC全滅のために同じシナリオを再度やり直し、なんてのは日常的にある。キーパーがシナリオとして用意しているのは5年連続殺人事件の真相と手がかりのみ。主人公のK1やレナらのグループの扱いはPCに準じており、彼らの巻き起こす惨劇はキーパーからすれば「謎解き」の本筋ではない。

しかし、5年連続殺人事件もレナや圭一らが起こす惨劇も、最初から全てひとつながりの物語として享受している読者・プレイヤー側から見た場合、このような作者側の区別は見えないし、意味がない。ぶっちゃけ、独りよがりでしかない。

そのことに途中で気づいたために、用意したキャンペーンシナリオの「本来の正解」と「読者を裏切らない展開」の擦りあわせを行うべく、最初に大きく舵をきったのが4本目の「暇潰し編」、わけても「おつかれさま会」である。本文とは別の形の(後書きに近しい)テキストで推理のための外枠を設定してやることで、作者側の用意した設定の範囲内に推理の枠組みを抑え込む。
この文章が出た段階で「推理小説として」という枠組みは作者側から放棄されているのであり、「推理小説としてどうか」という文句を言うなら、第2作で時間が巻き戻されている段階で「推理小説」という形式は成り立たないと指摘するか、さもなくば4作目の「おつかれさま会」の謎解きの枠組みへのあからさまな干渉・誘導に対して非難をあびせるべきであって、なんですか、6本目や7本目になってから「こんなんじゃ謎解きできない」とか文句を言う(なぜか、ネットの感想ではみんなそんな感じだった)のは、ちょっと、自分で思考しないにも程があると思うんですが、さておき。