殺人ゲームやってるやつが人を殺すか殺さないか

 実際にゲームの中の何でやらかしていることが現実を侵食するというのは、殆どの場合はありえない。殺人や器物破壊はゲーム内では日常茶飯だが、それは、誰もがその行為を遊びだと判ってやっているからだ。外から見て違いは判らないけれども、当事者にとって、現実に生活する際の意識と、遊んでいる際の意識は区別がついている。

 その上で、例外は常に生じている。遊びが実生活のルールを侵食し変えていくし、実生活が突然やってきてゲーム盤をひっくりかえしたり、あるいはゲームのルールに変更を与えたりする。そのボーダーは常に変わる。そのへんは偉い人が語りつくしてるので割愛。

http://onisci.com/048.html
の場合は、ゲームのルールの中に現実を持ち込もうとしている例。コンピューターゲームではプレイヤーの側が与えられたゲームのプログラムを改変することは出来ない(厳密にはプログラムコード等を弄ることに通じた遊びは常に存在し続けるが、それらはドラクエという共有される枠組みの外側として扱われ、会話の記号としては流通しない)ため、「ドラクエという遊び」の価値は守られ続けることになる。これが、厳密な境界もルールも見えにくい子供の遊びであれば、上リンク先の会話は遊びの継続に決定的な打撃をもたらす可能性が高い。「お前って全然モノしらねえのな、バッカじゃね」と冷や水をかけてるわけだから。ツッコミをいくら入れても高度に複雑な遊びを維持できるソリッドな道具がコンピューターゲームだ。それゆえにプレイヤーは他のゲームに参加するときより、多少の無茶がきく。スポーツや囲碁将棋に参加するプレイヤーは思考や身体の動かし方などにそれなりの制限がかかり、その制限に従わなければ周囲から見てゲームに参加しているとみなされないが、コンピューターゲームにおいては、逸脱の度合いがかなり大きくても、ゲームプレイの延長とみなしうる。延長の先は、理屈の上では無限だ。(それこそ、改造などによる大幅な逸脱もドラクエという元のゲームの枠組みの延長上に語られてしまう)

 ゲームプレイの延長していく先は、際限なく広がっていきかねない可能性をはらむことになる。そのひとつの形態としてゲームシナリオを巡っての諸問題がある。