「自由を考える」みたいな話…ではないです

http://d.hatena.ne.jp/Linkage/20060425/p2
TRPGの話について、御指摘いただいてます。

ただ、様々なルールがあるからTRPGが「不自由」なのか?といえば、決してそんなことはないと思います。場に集まったプレイヤーに対して一定のルールとストーリーの方向性を提示し、最低限の共通認識を取りつけることによって、その枠の中では各参加者の自由意志を反映し、様々なバリエーションを楽しむことが可能。
http://d.hatena.ne.jp/Linkage/20060425/p2

はい、自由とか不自由とか、僕の言葉の使い方が拙かったですね。元々はhttp://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060415#p2で書いたように、大塚英志の文章への批判なんですが、ここでの話の流れで僕が書いてるのは、STGやCRPGやSLG、アクションRPG、囲碁や将棋やサバゲーやなんやかやと比してTRPGが「より自由」である、あるいは「物語を作るのに適している」とは言えない、という主旨です。少なくとも僕の場合、「物語」の言葉の範囲を広く考えてるので、「小説や映画で描かれるような話=物語」を志向するためのRPGと、テトリスのようなパズルゲームは、物語作成ツールとしては均等、と言ってしまって差し支えないかな、と。ただ、小説や映画といった幅広い領域を参照してゲームをプレイしていない人でも意味が通じる物語作成のためのパーツを求められる分、いわゆる「物語志向」でプレイされるTRPGのほうが、そのゲームを普段プレイしていない人でもわかるような形での物語のバリエーションは増やしやすいと言えると思います。
で、ルールがあるから不自由、とは言っていないと思います。その上の文章で「4人も5人も集まって意見調整しなきゃいけないとなれば常識的に考えてその「自由」てのはえらく制限される。」と書いているように、目に見えるルールのあるなしとは関係なく、自由不自由なる考え方は費やされると思ってます。これは今回の一連の話の元ネタ
http://astazapote.com/archives/200011.html
の11月7日の指摘をそのまま引けば、

人は今も昔もなぜかRPGのキャラに「職業」を求めてしまう。だがこれを、例えば複数のプレイヤーによる複数のキャラクターがパーティーを組んで冒険する際には役割分担があった方が面白くなるからだ、などと現在の自明性から出発して説明するのは倒錯している。逆である。職業分化があったからこそ役割分担が可能になり、パーティープレイの面白さが生まれたのだ。そもそも「想像力」による「自由」と言ったところで、結局観念が、或いは「言葉」が先行していなければ、人は何も想像できない(試しにファンタジーのファの字も知らないようなお年寄りを相手に『D&D』をやってみればよい)。そしてそのような事態を避けるために、初期のゲームデザイナーは「クラス」という形でキャラクターのパターンを予め設定し、プレイヤーが小説か何かで得た「戦士」や「魔法使い」のイメージから取りあえずは一定の堅固さを持ったキャラクターを引き出すことができるようにする必要があった。つまり初めに「言葉」を与えておく必要があったのだ。無論『D&D』が登場した背景には既にトールキンムアコックロバート・E・ハワードの小説に基づいた「ファンタジー」という通念があった。しかしそれをTRPGという全く新しい世界に引き込むという未曾有の作業に当たっては、現在それを自明のものとして受け取っているわれわれには最早や想像すらしにくい事だが、「モンスターや魔法が実在する世界で冒険に出かけるキャラクターは必ず戦士か魔法使いか聖職者か盗賊であって、農民や商人や地主や詩人であってはならない」、と当たり前のことを宣言しておく事がどうしても必要だったのである。そして皮肉なことに、プレイヤーの想像力を補助するというよりは殆ど制限し望ましい方向へと調整するこの「クラス」概念があって初めて、「自由な想像力」によるゲームプレイが可能となったのだ。

・・・

しかし楽しむことが目的だなどとタカを括って「実践」へと向かうゲーマーに限って、この現実性から顔をそむけて不自由を自由と信じようと躍起になって他者性を抑圧して回るのであり、その態度をオタクと呼称するかどうかはさて置くとしても、そこに現れるのが今や知的退廃でしかないことは確かである。つまりRPGは本来の自由度を捨てることで経験値上げとストーリー追いのCRPGに堕したとか、『D&D』における「クラス」が「種族」と「職業」に分化して行ったとかいった、単線的でまことに馴染みやすい歴史の見取り図が描かれ、或いはロールプレイングというのは心理学の療法として生まれたものだとかいったあのいつもの起源探しが始まるわけだ。だがCRPGが主流化しその反動としてTRPGの「自由度」が無批判に持ち上げられるようになった現在こそ、人は両者の差異ではなく同一性に着目し、TRPGの「不自由度」と制度性を見極めるというささやかな「自由」を手にしうる筈である。

となるわけですから。
もちろん、現在のRPGの実践の場では上記のような指摘を踏まえつつより発展的な形でのロールプレイが繰り広げられていることとは思いますが、だからといって現在プレイされてるTRPGの現状にこの種の「自由度をめぐる議論」の積み重ねが様々な形で影響を与えていることは無視できるものではありません。
そして、そのようなRPGのプレイの実際を軽視する人たちが「TRPGはゲームというより演劇だしね」などと言いながらTRPGをゲームの範囲から排除して「ゲームの純粋性」を振りかざしたり、TRPGを自分らの議論にいいように使いまわしながら物語論だの文学論だの文化論だのを講談社現代新書みたいな小さな書店でも置いてるポピュラーな媒体で語ったりしてるわけでして、そのへんまかり間違って信じた若い子らがコンベンションに紛れ込むようなことになったら荒れるんじゃないかしら、と余計な心配をしたくもなるのです。
僕はCRPGもTRPGも、シューティングもマージャンも、もちろんここでずーっと語ってる分岐ノベルのエロゲー*1、全部「ゲーム」で括れると思ってますし、そこには共通の在り方があると思ってます。そういう話をしとかないと、RPGなんていつまで経ってもゲーム脳の恐怖、で語られる代物でしょうし。
ですから、TRPGもまたコンピューターのゲームと同じ水準で、ロールプレイと言っても可能なことと不可能なことがあること、何かを達成しようと思ったら他の部分で規制が働いていること、目に見えるルール以外にも目に見えない形で参加者への制御が働いていること、を明文化しとくべきだと思うのです。
ざっくりですみませんが、以上のようなことです。

*1:だから普通の活字小説も映画も射程内に入るはずです