応用問題

 次。魔王は一般的に見た場合、「狩られる側」だろうか。

 おそらく妥当ではない。一般にそのようなものと概念されるコンピューターRPGの形式下で勇者は魔王を倒すとしよう。実はしばしば、勇者は複数回、魔王及び魔王の勢力下の魔物などにより倒されている。ゲームプレイする各人のプレイスタイルや各ソフトのゲームバランスによって大幅に左右されるものの、勇者や勇者を含むパーティーが全滅しゲームオーバーとなる回数が少なくても数回、多ければ100回や200回を数える一方、魔王を倒す回数は全体においてしばしば1度きりか、数回だ。つまり魔王が狩られるのと同じか、多くはそれ以上に、勇者もまた事実として狩られている。(やりこみプレイなどの例外を考えても比率が大きく変化するとは考えにくい。魔王を何度も倒してデータを収集したりエンディングを見たりする遊び方の一方で、低レベル縛りプレイなどの全滅と一歩手前の遊び方も存在し、どちらかに偏るとは考えづらいからだ)

 ゲームをプレイしている最中は、この「狩るか狩られるか」の緊張関係が一定期間維持され、それが勇者が魔王を狩る大きな理由のひとつであることは間違いない。コンピューターRPGのゲーム内の状況において、魔王は一方的に狩られる側とは言いがたい。

 にもかかわらず、コンピューターRPGへの批判やパロディとして、暴力を持って魔物を蹂躙する勇者と一方的に狩られる被害者であるような魔王という形式はそれなりに流通しているように見受けられる。そうした通俗的理解の背後にはそれなりの社会背景や文脈が存在するが、特にコンピューターRPGにおける特殊事情として、戦闘で負けて途上でゲームオーバーとなる結末がその後の再プレイによって上書きされ消し去られてしまい、結果として勇者が一方的に魔物を蹂躙し直線的に魔王を狩る形の結末だけが、事後的に勇者の物語として記憶されてしまうことが挙げられる。

 もちろん、魔王と勇者の関係として日本でもっともよく知られたドラゴンクエストでは「しんでしまうとはなさけない」のテキストでもって敗北後もゲームオーバーにならずに勇者の物語が継続する(ゲームオーバーは、魔王を倒すか、仲間になるかのどちらかしかない)のであり、その特異性の持つ意味は十分に吟味されなければならない。

 しかし、そうした吟味を経て尚、魔王が一方的に狩られる存在であるとする二次創作的な通念は、しばしば実際のゲーム内のテキストや状況を無視して成立していると推察される。続く。