デジタルノベル『鬼哭街』

一人のヒロイン(妹)を5人に分けて、その5人を取り戻すことで妹を獲得する話を分岐なしの一本道ストーリーで描く、というのは十分に製作当時のノベルエロゲーのメインストリームの構造への問題提起になってると思います。その結末も含めて。
ニトロプラスというメーカー、虚淵玄というライター/企画者は、基本的にはそういったノベルゲームの形式への積極的な言及を意識的にやってると思われます。私は『鬼哭街』プレイ時に『ハローワールド』と対の作品として企画されたのではないかと想像しましたし、実際に『ハローワールド』はそのように受け取れる作品でした。片やヒトが機械の母胎に回帰する話、片やロボットが機械の母より生まれ出でてヒトと巡り会う話、ですから。
ということで、『鬼哭街』については「小説でやればすむ話」とは思いません。あの時あのタイミングあの形式で出すことに非常に積極的な意味づけを与えられていた、と考えます。
てか、形式から切り離された内容というのは要するに受け手との距離を自分から遠ざけているわけで、やるのは構わないけど独り善がりの評は免れないような。中国人を対象に中国で日本語で書かれた小説を売って「珍しがって買ってくれたけど読んでくれないし主題を理解してもらえない」と愚痴るのは、あまり同情してもらえないんじゃないだろうか。
ノベルゲームの場合、「ゲームをプレイしなれている層」や「小説を読みなれている層」のほうが「ノベルゲームを読みこなしている層」よりも人口が圧倒的に多いのでゲームのジャーゴンや小説のジャンルのお約束の切り口から読むほうが一般的であるし間口も広い、と主張するのは可能だと思う。そこから「ゲームほどやり応えがない」「小説より洗練されてない」以外の感想が出てくるのか、甚だ疑問に思うけれど。