『ひぐらしのなく頃に』07th Expansion

その5。
その1はid:tdaidouji:20050720#p1
その2はid:tdaidouji:20050723#p1
その3はid:tdaidouji:20050729#p1
その4はid:tdaidouji:20050731#p1
「学校=ゲーム世界」の破壊がノベル系ギャルゲーの抱え込んだテーマであると書きましたが、これはビジュアルノベルとノベル型ADVの二つの系統の衝突によって抱え込まれたものです。
大雑把に分類すると、ビジュアルノベルはその形式によってゲームとゲーム的世界観を説明・接近しようと試み、ノベル型ADVはそれを受けてゲームの内部からノベルというムーブメントを飲み込もうとして発生します。ビジュアルノベルの側の動きは、例えばそれ以前の『DESIRE』からスタートした菅野(剣乃)作品のゲーム性回帰の流れにも見られるような、ある意味、一般的な流れです。しかし、ノベル型ADVという正面衝突によって、話がややこしくなります。
 
ゲームがそのゲームシステムによって何がしかを表現しようと試みる際、軸となるのはゲーム性と呼ばれる部分、ぶっちゃけてしまえば数値計算の入出力を体得的に習得する部分、要するに八百屋のおっちゃんの客捌きのようなものなのですけれども、実際にはそれ以外の修飾が山ほどついてきます。そして、それが描写の中心軸となるのが殆どでしょう。その代表的なものがRPGの描写する「異世界」と、その「世界観」です。「ロードスという島がある。…」というやつ。
異世界というのは不思議な概念です。それは我々のこの現実世界と何の接続もないかのように思われていて、「なんとなく同じ」であるイメージの類似だけで説明がなされてしまいます。死後の世界や人外の異界が物理的に地続きであったり過去や未来に配置されたり倫理道徳的に接続されていたりしていたのに対して、映画や漫画などの視覚メディアが用意してゲームメディアが駄目押しで成立させてしまった「異なる世界」はただ何となくのイメージだけが共有され存在してしまっています。もちろん、実際には視覚という経路、ゲームという触覚・体感的な経路があって、そこを経由して私たちと繋がっているのですが、大量のテキストが消費され文章的な経路しか目に入らないとき、それらは宙に浮いたままで存在感を維持してしまえるように思える。そのような異世界を本来の経路を介さずに別の経路、すなわち倫理道徳的(社会的)説明や自然科学的説明、テキスト的説明を用いて短絡的に接続しようとしたとき、捩れが発生します。
異世界の太陽は私たちの知る太陽と同じものでしょうか。時間経過は同じでしょうか。物理的には、1日が27時間かもしれない、人間と書かれた存在は手が3本かもしれないし指は4本かもしれない。そもそも魔法などという物理法則を無視した現象があるのなら重力も分子間力も磁力もへちまもなくて、異なる力が働いてるかもしれない。あるいはこのテキストで描写するという行為も怪しいものです。海外小説を日本語に翻訳するのだって意訳は山ほどある。北が南に、西風が北風に、豚が馬になることもある。まして「異世界」ともなれば、その描写が直訳か意訳かを判断する材料もない。単語と実際の物事との接続を保証してくれるのは同じ言語を使っているもの同士の約束ごとによってでしかないし、そんな約束が成立しない「異世界」の描写が言葉によって間違いなく伝わるはずもない。
異世界」を捉えようとする試みは、最終的には異世界を出現させた本来の経路、視覚的、触覚的、あるいは聴覚的な経路を意識せずにはいられません。それを外してしまったなら、客観性の保証の全くない資料の不足した状態で、天動説も地動説もニュートン力学も文法も諺も心理描写も脳内麻薬も全て先に言ったもの勝ちになってしまう。
しかしながら、そうした「言ったもの勝ち」のシチュエーションでSFやファンタジーなどの言葉が消費され続けているのが、ここ10年以上のゲーム周辺の風景です。*1例えば最も典型的な例として人間の心象風景と物理的な事柄が直結する描写を「魔法」と称してしまうあけすけな態度は、以前は随分と忌避されたものですが、今となっては当り前となっている。この世界における魔法の実在の根拠はアニメの透過光演出やゲームデザイン上の要請にあるとはもう誰も言わない。そうした「魔法」がそこらじゅうにまかり通っている風景は、それ自体が間違っているというわけではありません。ただ、純粋にSFであるとかミステリーであるとかリアリティであるとかいった言葉の根拠をひっくり返します。積み重ねられた自然科学もヒューマニズムも参照できないSF、現実の倫理観もテキストの信頼性も通じないミステリー。それらを、それでもなお私たちにとって必要なものとして成立させるには「異世界、およびゲームで体験した世界もまた一つの現実である」ていう明快な態度が必要で、そういう態度を示したからには「ゲームの暴力描写が現実に影響を与える/与えない」などといった言い方が無意味であることを認め、RPGの戦闘でモンスターを殺すことと現実に殺人を犯すことを併置した上で、その違いを説明しなければならない。だって事実として社会的物理的レベルで人は死んでいないじゃない、というようなことをひとつひとつ説明せなならん。そんなん当り前じゃんと言うなかれ。そんなこと言わない人のほうが圧倒的に多いし、ノベル系ゲームの周辺では今でも「世界観が凄いシナリオ」が珍重され、あるいは「世界観をどう解釈するか」というパズルゲームを(作品内にない超科学概念を持ち出してまで)制することに血道をあげてる人が大勢いるのですから。
さて、時代遅れの年寄りくさい話を延々としてきましたが、ビジュアルノベルは、ゲームのそうした従来の現実社会から独立した異世界描写を獲得することで支持を得ます。均質な空間の中、様々な設定の事物や人物を異なるストーリーテリングで描写することで、「世界観」を描写し、登場人物の像を浮き彫りにするというその手法が、ゲームの魅力を効率的にトレースしているとして支持されます。昔、そのへんを巡って書いた挑発的な文章がid:tdaidouji:20030907です。

すなわち「痕」は実はそれ自体はほとんど一本道の作品であって、クリアしたときはじめて「全体で大きな物語を語る分岐ノベルという表現方式」という大いなる幻想が出現した(ように見えた)と言えるのではないでしょうか。

それに対してADVの側がノベルを飲み込む際にノベルに見出したのは、ゲームの主人公と物語の主人公が異なるという事実と、そこから導き出される物語ごとの絞込みの結果としての「世界観」の崩壊という事態でした。ノベルの側がゲームシステムにより保証された幸福な日常空間を追い求めるのに対し、ゲームの側はノベルによって否応なく表層レベルに洗い出された、「ゲームシステムの中に没入する快楽」を取り込むために、ノベルが抱えるゲーム内世界観の破壊をも引き受けなければならなくなります。ゲームにとって物語の単線的な構成と、そこから否応無しに導き出されるエンディングは、できれば無しにしたいものの筆頭です。何事もなかったかのように無限ループを続けることこそがゲーマーの本願であって、アーケード版『COTTON』のシューティングゲームであるにも関わらず2周目に突入するのに再度50円支払わなければならないという物語への卑屈な追従に、心あるゲーマーは理不尽さを覚えずにはいられないでしょう。
ノベルADVは、ゲームシステムが描くはずだった均質なゲーム空間というユートピアをテキストレベルで表現してしまったビジュアルノベルを引き受けることによって、物語とゲームがすれ違い解離していったファイナルファンタジー的な問題とは異なり、物語とゲームが衝突する光景をテキストの位相で地続きに表現することになります。

ギャルゲーの主人公たちがいつまで経っても自分の気持ちを意中の人に打ち明けず、数ヶ月から時には1年もの間、さして好きでもない他の女の子たちとの会話やデートを延々と続けねばならなかった事実に、人はいま少し敏感でなければならない。これは別に彼らが優柔不断な性格の持ち主だったからでも何でもなくて、フラグ立てによるプレイヤーの意思確認という、「告白」を常に先送りする運動こそがギャルゲーを成立させているからである。従ってギャルゲーにとって告白とは、目的であるどころかどこまでも避けられねばならぬ一点なのだ。現に、さんざん繰り延べられた告白というイベントが遂に起こった途端、ゲームは終わってしまうではないか。

まして『ONE』は極限まで「幸せな日常」を描出する(そして後にそれを廃棄する)ことを目指した作品なのだから、「告白」に関しても一層神経質だ。浩平とヒロインがいわゆる恋人同士になる過程は徹底してなしくずしであり、一つの場面や台詞を決定的なものとして取り出すことはできない。その徹底ぶりたるや『To Heart』さえドラマチックに見えてしまうほどだ。そしてその唯一の例外が長森シナリオにおいて不慮の事故として発生してしまう「告白」であることを考えれば、奇妙なまでに攻略が拒まれていた事にも或る整合性が見えてくるだろう。告白とは、何事も起こらないからこそ幸福な日常に「何事か」を起こしてしまう致命的な事態であり、浩平が自分から長森を好きになり告白する(=日常を壊す)という展開が避けられねばならない以上、それは彼の意思にも反しプレイヤーの選択にも無関係な「事故」として起こる他ない。
http://web.archive.org/web/20020611072300/www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary8.html#000412

こうして、「異世界の破壊」を抱え込んだままでメジャーの舞台に上がってしまったノベル系エロゲー/ギャルゲーですが、実を言えば、受け手はそんな「異世界の破壊」などどうでも良かったようです。というか、思春期に適当に通過しておけばいい代物を通過せずに未だに留まってる僕らの大半にとって、ゲーム空間=学校=モラトリアム空間は壊されては困るものでして、「異世界の破壊」をきちんと受け止めて無言のうちに通過していった人を探し出すことが困難である*2以上、ネットで今見られる記事の大半は、「学校の破壊」を適当にスルーするかSF的解説をくっつけて世界観の再構築を目指すかしたものになっているのでした。
 
まだまだ続きます。

*1:薫さんが言う「世界観=手からビームが出る理由の差異化ゲーム」とか

*2:今回、引用記事の大半がインターネットアーカイブを利用したものであることがそれを証明してます。