『さくらむすび』、というより『水月』の話

紅葉とラブラブ。ただひたすらいちゃつく描写だけが殆ど無限に続く。たぶん、作ってるほうもプレイしてるほうも静かに狂ってる。だってもう、主人公が何やっても変だと思ってない俺がココにいる。あーいや、正確には、主人公が粘着気質的に実践と検証、反省とリトライを際限なく繰り返す過程で、自分の立ち位置を冷静に自覚しながらそれをよしとする境地にまで辿り付いてしまっている。炉とかにょーとかいろいろと。てゆかむしろ積極的に飲



にょーにょー言ってるとキリがないので話題を転換して。
あたしの中では、シナリオライタートノイケダイスケ氏はノベルエロゲー御意見番みたいな位置付けでして、『水月』以来の地味に頑固な職人気質の狂い方は、3年ぶりの新作となる本作でも健在でした。いやまあ、嬉しい限りです。コンビの絵師に恵まれてるとテキストも安定しますね。
以前に2002年がノベル系エロゲー/ギャルゲーの節目、と書きましたけど、ノベルADVとビジュアル(サウンド)ノベルの、もしくはギャルゲーとエロゲーのそれぞれの結論として、『My Merry May』と『水月』が2002年4月末のGW商戦に発売されます。発売日は1日違い。

人にあらざる、なんでもできるメイドさん、さらに身のまわりの世話だけでなく、主人公の全てを包み込み受け入れてくれる、彼専用のメイドさん
主人公の本来の希望をはるかに上回る完成度で甘やかす、完全版レプリス、
(中略)
この二作の発売日がわずか一日違い(『My Merry May』2002/4/25、『水月』2002/4/26)であることに、何か運命的なものを感じますが、それはただ自分の経験不足によるものでしかないのでしょうか。
http://www1.ocn.ne.jp/~hkoba/diary/gd0210.html#20021020

My Merry May』はエロなしADV形式、『水月』はエロ付ビジュアルノベル形式。前者は「エロという正解」の保証なくしてノベルゲームが何を語り得るのかを試み、後者は「ゲーム」という枠組みなくしてノベルゲームがメディアジャンルとして成立することを証明し、それぞれに「プレイヤー」と「表現」(テキスト/グラフィック/立ち絵etc.)とを見出してみせます。もちろんそれは同じことの両面ですが。
 
 
 
 
以下、『水月』完全にネタバレ。例によって『水月』をプレイしていない人は避けるよう。口から出任せ満載なので本気にしないよう。
 
My Merry May』の話は後日やるとして、『水月』ではテキスト、世界観、人格といったビジュアルノベルの構成要素についての連続性と不連続性をナラティブに並べてみせる、という、言葉にするのが面倒くさいことをやっています。
ビジュアルノベルの画面の構成要素は、立ち絵、背景、テキストです。あと音楽と効果音と音声といった音の要素がありますが、『水月』ではそこまでは立ち入りません。
水月』について語られる際に多くの人に注目されるのは那波および雪シナリオにおいてパラレルワールドのような描写がなされる点ですが、この「多世界」について、作品内では明瞭な説明はありません。というより、A世界、B世界、C世界といった確定した幾つかの世界をプレイヤーが行き来していると考えて分類表のようなものを作成すると、破綻します。これだけだと「設定の不備」となるのですが(てゆか大抵がそういう見方をしますが)、ここに別のキャラクターのシナリオを考慮に入れると、そう単純にはいかなくなります。
和泉および花梨のシナリオにおいては、背景の変化、すなわち場面転換がしばしば強引に行われます。とりわけ和泉シナリオは、花梨が倒れた直後に和泉と主人公で二人して祭りの花火を眺めて幸せを満喫するという構成で、和泉は2chなどでは「親友のことを切り捨てて男を取る鬼畜外道」として散々に蔑まれています。ですが我々は、ここで雪シナリオや那波シナリオの展開と並べて、構成の類似に注意を払わなければなりません。
あるタイミングで突然に最初からいなかったことになる雪、那波と仲が良かったり微妙に疎遠だったりするそれぞれの「世界」を彷徨うように巡る主人公、主人公は直前のシーンまでの記憶を持っていないかのように振る舞い、あるいは突然に思い出し、といった「時間移動」とも「世界間転移」とも「記憶移送」ともつかない様々な状況を巡りつつヒロインと結ばれる。それらの派手な展開と、ある日突然に姿を消す和泉、面食らうほど急激な場面転換の後に少ししてから直前のシーンとの接続を付け足すように語る手法は、大仰なSF的説明を取り払ってしまえば、実は殆ど同じなのです。『水月』において「平行世界への転移」と「場面転換」とは全く同じ位相であるかのように語られます。シナリオ前半の「前世の記憶」を夢に見ているかのような描写もまた中盤以降の「場面転換のような世界転移」と「世界転移のような場面転換」とに紛れ込み、夢も現実も同じ時間軸に並列されるルート分岐も通常の物語における順接の時間経過も全てのシーンの接続が、連続していると同時に切断されることになります。『水月』においては、選択肢があろうとなかろうと、直前のシーンと現在のシーンとが「同じ世界で連続している」ことを保証するものは何一つありません。どんなシーンであっても、いきなり別世界の別人格の主人公に転移した直後に、記憶のズレのつじつまを合わせるために言葉を紡いでいる可能性がないとは限らないのです。

次に、立ち絵、キャラクター、すなわち人格の変化です。パッケージを飾るメインヒロインの那波は当初、二重人格、もしくは裏表のある性格のような描写がなされます。そして地元の神社で祭られる「ナナミ様」、夢の中の「ナナミ」と情報が交錯し、那波シナリオに進むとこれが「夢で見た前世の記憶」や「異なる人格の移植」であるかのような語られ方がなされますが、実際にはこれもうやむやです。*1こうしたヒロインの人格の特定不能な状態は、花梨の物語中盤の「変身」や奉納舞のシーン、香坂マリアの狐つき、といった描写と連続し、那波のそれが「演技」なのか「前世の人格」であるのかなど全く見えなくなるばかりか、マリアの「母親の幻」と狐つきの人格とがリンクすることで、人格というあやふやな言葉を超えて人物の実在さえも侵食し始めます。それは画面内に一度も登場しない和泉の母親の実在を一瞬でも疑わせ(中盤「私にはお母さんなんていなかった」と発言します。直後にその言葉の解説がなされますが)、さらには主人公の母親代わりであるかのような雪さん(と風船ウサギ)にまで類推が及ぶとき、那波の「演技」「幻の人格」「前世の記憶」は雪さんというヒロインの実在をも消し去ります。立ち絵はあっても実はその存在は最初から夢か幻だったのかもしれない、マリアの母親のように。記憶喪失で過去を一切持たない主人公の視点は見えないものを見てしまい、思い出す記憶はそれが真実であるかを判断することもかなわず、記憶と現在の時制が混在するにまかされ、全ての情報は分裂した様相をまとったまま融合します。
ここにおいて、記紀神話をなぞらえたかのようなナナミ様の伝説は真実の(しかし矛盾する内容の)過去であると同時に主人公と那波が作り上げた夢であり、民俗学から拝借したかのような山の民の存在への言及は雪さんの確かな出自であるのと同時にでっちあげの偽史であり、そこらの物言いを拝借するならばメインカルチャーとしての正統な歴史とサブカルチャーとしてしか生き残る道のない排除された歴史とが主人公を両側から挟み込むようにしてせめぎあい、しかしどちらも決定的な「世界観」を形成することなく個々のヒロインの人格や主人公の記憶と連続した夢物語を紡ぎだします。のみならず、決断しないモラトリアムの象徴としての双子である香坂姉妹は、無人の(誰も祈ることのない)キリスト教の教会に住み着いたジプシーの末裔であり(本人たちの説明を信じるなら)、彼女たちのシナリオにおいては聖域としての使用されていない(しかし清潔な)小学校や、第二次大戦の記憶を呼び起こさせる防空壕の跡のトンネル*2といった、設定と捉えずメタファーのように捉えればあまりにもあからさまな素材がゴロゴロ提供されます。もちろん、それらが「ここで人がたくさん死んだ」といった「事実」としてシナリオに組み込まれることで、またも「キャラ人格(設定)」や「世界観(世界設定)」の解決されることのない迷宮へとプレイヤーを誘うことになります。*3

そもそもPCのノベル系作品において、『痕』『月姫』などで伝奇的な設定が好まれたのはそれなりに理由があると見るべきです。RPGの本流が西洋中世〜近世を舞台として採用した背景に民主主義の思想とその起源としての西洋世界のフェイクを必要とした*4のと同じ程度には、RPGのような戦闘・レベルアップシステムを採用していないノベル系ゲームは擬似神話としての伝奇物語を必要としていました。*5そうした、足場のない「ゲーム」に偽りの足場を与えるため用意された擬似神話を、『水月』はヒロインと愛し合い結ばれるためだけにカスタマイズされたノベル系エロゲーの構造によって解説してしまいます。ここにおいて擬似神話は足場たりえず、物語を律するシステムの骨子がただヒロインとなるキャラクターのみに向かうことを示します。
そのようにして神話ならざる神話を語り、物語と(実生活を送る我々と)神話との間をナラティブなものとして提示することで、『水月』はゲームという名の神話を「小説」化し、もしくは「小説」をゲームを経由して「神話」化するノベルゲームの自己言及(正確にはノベルADVをビジュアルノベルの形式で語ってみせた)を成立させます。
 
水月』の話だけになっちゃった。『さくらむすび』の話はまた今度。

*1:このへんをゴリゴリ分析しようとした記事にhttp://homepage2.nifty.com/nori321/review/suigetsubare.htmがあります。途中で挫折してるけど労作の評論です。

*2:ご丁寧に、そのトンネルの中で戦争のどさくさにまぎれて山の民を虐殺したのではないかという説まで披露される

*3:ってゆーか、多分、立ち絵と緻密な背景ていうデジタルな組み合わせやゲーム世界観への過剰な思い入れが絵本や童話、民話を読むような読み方を阻害するのではないかと。

*4:某所からのパクリ文、見つけられたらリンクします

*5:もう一つの民主主義的な価値観の足場が「学校」。