犬王

 アイドルアニメが溢れてる昨今もあり、音楽と組み合わせているアニメについて「これはアニメが主か、音楽が主か」と考えるときがある。

 理想を言うなら楽曲と映像が精妙に組み合わさって一体化し相乗効果を上げて「これぞ総合芸術!」みたいな喝采となるべきなんだろうけども、そういう簡単な話でもなかろうな、という。

 アニメーションと音楽の合成で一番に取り上げるべきはディズニーの「ファンタジア」になると思うんだけども、たとえばファンタジアをシーン毎に見ると、「あれ、これって、アニメーションがただ単に音楽を視覚化してるだけじゃね? アニメーションが音楽に従属してるカタチなのでは?」と思ったりする。

 当然、逆に音楽が映像に対し従になるのも普通なので、どっちがダメというわけでもないのだが、アニメーションの場合は実写映像と異なり映像の先にある実体を持ち合わせてないので、音楽が従の立場のうちはいいのだが、アニメーションが従となってしまうと、どうも完全に音楽に組み伏せられ、主張を完全に失ってしまうような気がする。ファンタジアの頃は総合的なクラシック演奏会の視覚化のような映像作品は世界初の試みだし、アニメーションが音の従者であるような部分は特に気にするものでもなかったのだろうが、現代において「アニメとミュージカル的な手法は相性がいい」と安易にその手に乗っかると、途端に、それがアニメーションである意味まで失いかねないのではと前から思ってはいた。

 で、犬王がまさにそんな懸念がドンピシャに当たった感じとなった。

 アニメーションをとにかく音のリズムに合わせてる。作ってる側としてはアニメーション映像が主であり音楽は従のつもりだろうな、というのは見てて感じ取れる。アニメーション映像の快楽を、気持ちよくスルっと身体に直接滑り込ませるために、音楽のリズムを活用する感じだろうか。

 けど実際はそうなってない。観客の身体は音楽に合わさり、映像は音楽の従者として働いてるのだなと受け止める。目より耳のが強く、映像が音のリズムにズルズルと従ってるカタチになる。「ロックが古臭い」という感想が目立つのは、実際、鑑賞してて橋の上のライブシーンでずっこけるのは、こちらの感覚が映像じゃなく楽曲のイメージに否応なく引っ張られるからだろう。

 そういうロック音楽のなんとも間延びした視聴体験を、作品全体のテーマから解釈して意味を捉え、意図を理解することはできる。出来るが、それは湯浅政明という「映像イメージを頭で理解するんじゃなく身体で受け止めて欲しい」系の映像作家にとっては敗北だろう。体制に取り込まれるロックスターの姿から逆算して弁護してあげても空しい限り。

 映像作品、特に映画については「時間のコントロール」というのが批評家の気にするところだが、その面で言うと時間の主導権を音楽が終始握ってしまっていて、映像の側が主導権を奪われ続けてると思った。犬王が異形の姿で跳ね回るうちは、犬王の飛び跳ねる姿がリズムとなって、ちょっとは主導権を持ち得てたはずだが。

 ロックを選んだのもやっぱ失敗かなとも思う。スピーカーを通してしまえば琵琶法師の琵琶もエレキギターもフラットに並べられてしまい、そうなると一音の主張の強いのは琵琶の音のベンベン!じゃなかったか。つうかエレキのギュイイイイン!を問答無用に突っ込むべきだったと思う。映像と音の同期をあえて外すタイミングを設けることで映像の側に主導権を持たせることも出来ただろうし、そこであえてズラしちゃえば存在しないエレキ音が派手に跳ね回ったところでオカシイと言う客も少なかったろう。時代劇のBGMに洋楽を入れるなとは今どき誰も言わない。「ミュージカル」という体裁に囚われ過ぎて映像と音のリンクをあまりにも忠実に守ろうとして、失敗したのだ。

 ただ、失敗ではあるんだが、前のめりの失敗な感じではある。

 湯浅政明は個人的にはマインドゲームのときから「すごいんだけどすごくない」作家という評価がずーっと続いている。メタモルフォーゼの想像力、線の取り方の快楽、そういうのはすごいなってなるのだが、その凄みが、毎回こじんまりとまとまろうとしてしまう。

 今回そこから脱却したいんだろうなってのは感じた。いや、いつも狙ってるんだろうけども、今回は特にそう感じた。逸脱の快楽から始まって、こじんまりとしたまとまりに収まってしまう犬王の姿は、当然ながら湯浅政明自身を投影させてるつもりだろうし、そこをあからさまに見せながら、その先をなんとか掴もうと探ってるんだろうなと受け取れる。

 けどなー。

 アニメーションの歴史は、おそらくだが、楽曲の支配力に対抗するためのツールとして色んなものを発明してきたはずで。ミッキーマウスに代表される強固なキャラクターイメージの発明もその一つだし、宮崎アニメで駆使される高低差(重力表現、落下、そこに反発する飛翔)もあるだろうし、出崎アニメのハーモニー処理なんてのもあるだろう。

 湯浅政明アニメのメタモルフォーゼの快楽、線の快楽は、アニメーションの根源的な快楽に接続してるはずなんだけど、根源的にすぎて、なんかこう、せっかく100年かけて培ってきた色々、もろもろを、見落としてしまってる気がする。あえてやってる面もあるのだろうが、なんかすごく勿体ない。

 今回こうして安易にミュージカルにしちゃう前に、なんか欲しかったなあと。