「バケモノの子」

映画館で見るにはだいぶ酷い内容。
 
脚本についていえば、破綻してるというより、最初からシナリオとしてキチンとまとめる気がなくて散漫なまま羅列してるだけという印象。
結果、美麗な映像には歯ごたえがまるでなく、スカスカ。
今回も例によって映像美術方面で褒めてる人いるのだが、ここまで映像を支える他の要素をないがしろにされていると、映像を評価してる人たちはいったい何を見てるんだ、と言いたくはなる。
 
映像すごいって言うけどね、脚本から解放されて、真に自由にやっていいのだから、もっと映像に盛ったっていいはずなんだ。もっとデタラメな絵で溢れてたって、全然かまわないはずなんだ。だというのに、せせこましくチラ見せ、チラ出し、もったいぶってこんなもん、というレベルの映像表現でございますよ。凄まじいはずの書き込み量がだらんとだらけてしまって間延びしてしまって全く魅力がない。映像の説明のための台詞、映像の説明のための映像、そんなもんで囲まれて作品内でチヤホヤされっぱなしの映像に魅力なんかあるかい。

唯一、気を吐いてたのは宮野真守。というより他の大物実写役者たちは与えられた場の枠組みの中でのみキャラクターとして演技を許されてたようなもんで、話を引っ張っていく役割を最初から期待されてないんじゃないかと思った。宮野真守だけが物語を先に進める立ち位置、役割を与えられ、ろくすっぽ与えられない台詞数で見事にその役割を果たした。要するに業界御用達の、声優文化どっぷりの、いかにもオタ向けアニメの枠組みの体現であるような、ザ・スーパーアイドル声優・宮野だけが、この作品のリアリティでした。
 
逆に言うと、宮野を採用して作品の「つなぎ」に使った段階で、映像の空虚な美麗さは、別に計算された空虚さですらないって話になるんですけどね。あるいは過去作の経験からシナリオ内容に文句言われるの嫌になったり、ポリティカルに触れかねない自分の思想を晒すのが嫌になったりして、「映像だけの世界」に逃げ込んだんじゃないかなあ、って想像したくなる程度には弱い。これまでのほうが、良くも悪くも何らかの中身はあったと思う。それがまったくない。
 
宮崎駿との違いはなんでしょうかといえば、宮崎のほうはアニメーションと思想が完全に一致しちゃってるから、脚本がおいてけぼりでも自分で絵を描いてアニメーションを紡ぐだけでそのまま思想になってるとこ、じゃないでしょうか。
 
あと後半クライマックスの映像から連想される押井守との比較でいえば、押井守の出してくる映像のほうが、半端にチラ見せするようなことせずに、ダダ漏れに映像に盛ってくるので、押井守の映像のほうが密度ある。

台詞や構成はおろか、映像まで印象が薄い話でした。30分でまとめてオムニバスの一篇に収めるぐらいがちょうどいいと思った。