作者が公式で蛸壺屋同人をリリースしたら人気出てるらしく

山田尚子監督作品「平家物語」の話。4話まで見た時点での感想。

お題以上の話ではないのだが。

平家滅亡は最初から判ってるから、とは言うものの、壇之浦の最期を幻視するカットの挿入は直接的すぎて見ててあんまし上手いとは思えず。じゃあどうしろって言われても、平家物語を題材にして、そこに琵琶法師を挿入するための装置として用意された ”びわ” を持ってくる以上、そりゃこうするしかないんだけど。

まずこのアニメの座組として、山田尚子に期待されてるのはオープニングアニメーションで印象的に見せつけてくるような、繊細な感情の描写、ちょっとした所作の細やかさのはず(実際OPで見事に仕事してると思う)。そこに弩ストレートに破滅の予感をブッコんだなら、そりゃまあ、蛸壺屋同人にしかならない。あとは描写がえげつなく露骨か、そこはかとなく上品かというとこで、ハイソにウケるか下卑たパンピーにウケるかの差になるわけだけど、自分の受け止め方で言えば4話までの時点で「平家物語の窓口となるようわかりやすく」した分だけ蛸壺屋度がだいぶアップしてる。千葉繁後白河と玄田哲章清盛の二人が率先して肉棒モブおじさんのグフフ感に振っててあんまし厚みを感じないのもあり、重盛総受パワハラ親ハラ凌辱BLだよなこれ…重盛いたぶられるのを琵琶がかぶりつきで鑑賞するための徳子の運命幻視だよなこれ、となりがち。びわ悠木碧なのも、いや悪いとはいわんが、なんかさぁ…。

わりと辛いのが高野文子がキャラデザである意味あった? てぐらい高野文子感がなくてさ。高野文子は描線のデフォルメの切り口で語られるもんじゃないのかなと思うんだけどアニメーションとしてそこ重視されてます? 別に高畑勲かぐや姫みたいな極端な描線の強調は必要ないけど、動かすのを優先しすぎでない? もっと動かさない選択あったんじゃね? と。

このへん山田尚子だけに責任を帰されるものではなく、プロデューサーとか諸々の絡みあるんだろうとは思うんだけど、ただ、山田尚子の本人の志向としてもともと蛸壺屋路線に傾きがちだろうというのは、ここで誰かが書いといたほうがいいと思うので書くが、「けいおん!」アニメ一期の時点で原作にはない「夜にギターの練習する唯」を突っ込んで原作をドラマ寄りに改変やってることは意識しといたほうがいいと思う。山田尚子は別にゆるふわ好きではないし、むしろ割とガッツリと話を動かさないとならんと思ってる感がある。というか、最初に頭で考えた構成案に割と忠実に作っちゃって、軌道修正できないとこがあるんじゃないかなと疑ってる。端的に換言すると「固い」。その固さをもう少しほぐして融通きくようにならんかなと思って「山田尚子京アニから飛び出て仕事して欲しい」みたいなことを今まで何度か呟いてきたんだけど、平家物語4話の時点では逆に固いまま、むしろより固くなっちゃってんじゃね、という印象。いや、視聴者の要求が煩さ過ぎる現代のシビアな環境だと大変なんだとは思うんだけどさ。仕事選ぶならNHKの子供向け10分番組とか、朝の児童向けCGアニメとか、なんか「幅を広げる」的なのあったんじゃないかなあと思ってしまう。あるいは普通に低予算なろうアニメでもいいし(もともと「けいおん!」一期は低予算とは言わないまでもそこそこ好き勝手に原作レイプしても怒られにくいマイナー枠に近いもんだったはず)、なんかそういう固さをほぐすもんが欲しいのだ。

なお「蛸壺屋同人で何が悪いの?」という素朴な疑問もわかる。別にまあ「リアル」とタグつけた暴力で殴って話を転がすことなんて、当たり前の手法ではある。あるが、蛸壺屋同人を嫌悪してそうなハイソな層が平家物語なら教養だからオッケーというむず痒いシチュが俺は気持ち悪くて、作品を楽しむにあたってだいぶ障害になりそうだなという、そういう予見というか幻視というか、そんなもんに振り回されてるのを露悪的に表明せずにはいられないんである。