付け加えなければならないこと

自分としては気楽になってしまったのだが、それによって取り戻せなくなったことについて。
小説というのは、表現の自由のための道具というよりは、個人の主張を潰すための道具だと思っている。
小説の枠の中でしか、作家性という名前の、個人を発見してはいけない、という約束事がある。
小説の中で個人を発見しておけば、その個人としての相手に対応しなくて済む。現実じゃないからね。
小説という、反論しないサンドバックを使って、個人を殴りたいだけ殴る。そういう目的のために作家名があり、作家性が語られる。
伊藤計劃という人の名前の使われ方が、僕には、どう見ても、「死人に口なし」とかさにかかって、伊藤計劃という個人と対決せずに、彼を嬲っているようにしか見えない。
昔、エロゲでカントとか使って論じる人たちがいて、彼らの発言を見て思ったのは「カントはエロゲなんかプレイしていないのに、さもカントがエロゲをプレイした上でエロゲを論じているような書きかただ」ということだった。
だから「あんたエロゲをプレイしてないだろ」とツッコミを入れると、「エロゲをプレイしてもいないカント」は実にあっさりと「エロゲをプレイしている僕」に道を譲った。じゃあ、カントは僕より頭が悪かったのか? 論理的ではなかったのか?
伊藤計劃という名前を見ていると、そこにまた「エロゲをプレイせずにエロゲ論を語るカント」がいる、と感じる。
死人を使ったほうが生者にとって都合がいい、というのは世の中をうまく回すコツではある。ガルマザビは死んだ、なぜだ、てやつ。
死人の都合を気にしていたら墓ばかり増えて住む場所までなくなりかねない。そんなもんと真面目に付き合うほうがバカである。
人格という概念はあくまで生者にとってのものであって、死者のためのものではない。
その程度でしかない「人格」に、僕としては価値を見出すことができない。無理。
ということで、僕はネット上では積極的に人格攻撃を行うべきだと考えている。