石川博品『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』『耳刈ネルリと奪われた七人の花婿』『クズがみるみるそれなりになる「カマタリさん式」モテ入門』(ファミ通文庫)

噂話としては名前を聞いていて、先日、ラノベとコミックの専門館と化した書泉ブックマートに寄ったところ置いてあったので今さら。
「ネルリ」の1冊目を読み、続編にとりかかる前に頭からもう一度読み返す。それから2巻目で泣く。ファミレスで手で顔覆ってグズグズやったり紙ナプキンで顔拭ったりキモいおっさんだった。ネルリ3巻を持ち出してなかったのでカマタリさんを読んだ。つい先日、取り繕うようにして綺麗にラッピングされた(おそらくDVDを売るため)結果ぞっとする代物になり果てたラノベ原作のアニメを見てしまって、気分がすぐれなかった。*1それが救われた。たまらなくなったのでネルリ3巻読み終える前に今ここで書いてます。
 
足しになりはしないでも賞と名のつくものを2、3個あげればいいと思った。芥川とかノーベルとか。今どきハルキムラカミに何かくれてやるぐらいならこっちにあげたほうがいい。
私自身は基本的に文芸も推理もラノベも小説は殆ど読まない。なので文章の巧拙は奈須きのこぐらい極端に酷くない限り、基本的に判らない。判らないから巧拙は判断基準にできない。創作物について持ち合わせている基準は誠実であるかどうかのみ。誠実の基準は、どれだけ多くの人に向けて語ろうとしているか。
自分が小説を読まない人種であるから、私に向けて語られているのかを、つまり小説を読まない人種に開かれていることを求める。小説の作法を知らない人種、フィクションとノンフィクションの境目を理解しようとしない人種に向けていること。現実と虚構の区別がつかない(自分は区別できていると言ってのける)人間のほうが圧倒的に多い。フィクションをフィクションとしてしか読みたくない、現実以外一切を見ない、自分もその中の一人だ。そんな連中に等しく語りかけようとするものを誠実であるとみなす。
ラノベは評論本が取りざたされて数年経ったとはいえ、未だ売上と消費速度が全ての読み捨てパッケージ群だ。視覚からのインパクトが最重要視される時代に漫画やアニメなど小説より売れる視覚メディアと隣接することで、湯水のごとき新作ラッシュで売場を回転させフレッシュをアピールして売上アップを図る。それぞれの1冊は売り場トータルの中の一部でしかない。売上が全てだから業界の自主規制も激しい。少しでもクレームがつくことを恐れ、些細な事案であれ告発の危険を回避する。どうせ売れるわけもない政治的社会的ビジネス的名誉毀損的に危険な題材を扱う必要もない。一目でそれとわかる娯楽ごとがいい。
表現の自主規制の中で売り続けるラノベの中から立ち上がろうとする言葉は、誠実さに届きうる。クレームを恐れ周囲の空気を読んであたりさわりのない発言に終始する、それは現実の自分たちのあり方だ。創作物であり自己表現であるなら著作権も商標登録も法律も裁判も芸術の名において知ったことではないと言い張るアート集団がお話にならないのは、虚構と現実を、フィクションとノンフィクションを、あまりにもあっさりと切り分けて省みないからに他ならない。誰であれ、失言が・失敗が・油断が・予期せぬ揚げ足取りが、いつどこで一瞬にしてネットに晒され現実に攻撃されるか判らない、社会的・世間的な制裁をうけることを恐怖し互いが先制攻撃を狙っている、にも関わらずどこかにおいてネットや井戸端会議に接続し発話を差し挟まずには呼吸する許可さえ得られない、そんな圧倒的大多数と条件と意識を共有する最大のチャンネルへの接続を自ら閉ざすものが、それを補いうるだけの接続先をどうやって求められるというのか。
セカイ系」とはよく言ったもので、元はといえばロボや未来戦闘機などのSFガジェットを、SFとしての考察も使い古されたフォーマットも経由せず利用することに対し「こんなのSFじゃないよね」と今さらのように揶揄せんと*2「社会が描かれない」と言い募ったものだが、確実に売りさばくためにと自主規制で絡め取られた中で表現を研ぎ澄ませてきたものたちに対し、では一体、何をどう書けば<社会>を描いたと見なされたのか。何のためにファンタジーというジャンルが、何のために学園物(恋愛もの)というジャンルが、何のために一人称の語り手による韜晦尽くしの文体が、ライトノベルという視覚メディア偏重社会に適応したパッケージで磨かれてきたのか。*3
 
石川博品は誠実だ。
どっかの佐藤亜紀がオタ嫌悪で一席ぶっている間、ライトノベルの作法でライトノベルを書いた。小説を読まない人間に小説を通して語りかけた。言葉を共有していない相手と言葉を共有しようと提案した。私は小説を読まない人間としてそう受け取った。今、一晩経って夜中の4時に書いたテンション高すぎ文章を読み返して後悔している最中だが、ここで消したら日本の中年オタの矜恃も失うことになるぞとハッパかけてる。

*1:アニメのコンセプトそのまま延長の果てにイベント企画の不始末があるようにしか思われなかったのに、作品とイベントを分けて考えようとするネット上の論調の正しさぶりに、余計に胃がおかしくなった。

*2:「こんなのSFじゃない」という言い方すら過去に使い古されてしまっていて彼らは思いつかなかった/避けた。

*3:10年前の当時、売り手であり自主規制の現場の当事者である編集人・出版人たちがセカイ系という言い方・分類を好んだという話は非常に判りやすい。