「あの夏で待ってる」

なんだか、ギャルゲーの時代の終わりを確認したかのような話でした。そしてそれは「日常」というテーゼの終焉でもあります。
 
おねがいティーチャー」はOPが折戸でKOTOKOだったり、直球でギャルゲー影響下で作られたアニメでした。どんぐらいギャルゲーかというと本編製作前に作られたプロモ(と言うべきなのか)ムービーが以下のとおりだったりします。

そんだけギャルゲーですから、「おねティ」のアニメ本編というのは、普通に見ると結構な歪具合です。その歪さの最大のポイントは、みずほ先生が宇宙人であるという設定が、本編ストーリーの根幹と殆ど全くと言っていいぐらい絡まない点でしょう。ストーリーに大きく絡んでくるのは男性主人公である草薙桂の「停滞」であって、その線で見ると、みずほ先生が宇宙人だろうと単なるガイジンだろうと何だろうと話の筋としてはあまり変わらない。やってることは複数男女の青春ラブストーリーですし。
ですが、宇宙人が、その宇宙人であることをスルーされて、何となく日常空間の中に落ち着いてしまっている、ということ。非日常的な存在がヒロイン女性の形をとることで日常空間の中に溶け込み、その非日常性が物語上何ら機能しないこと。それこそが、「ToHeart」的なギャルゲーの、「日常」という単語に象徴される特異性でした。単なる青春恋愛ものが流行したという話ではなく、非日常の存在が紛れ込んでいるのに非日常的な展開に至らない、ロボが学園に紛れ込んでてもだから何、というのが、ギャルゲームーブメントの「日常」でした。「非日常」の「非」の否定であるがゆえの「日常」、けっこう積極的な、強い意味合いだったのです。
あの夏で待ってる」では、非日常的な展開が復活しています。「おねティ」で、みずほ先生が宇宙人であることは問題にならなかったのが、「あの夏」では真っ正面からストーリー展開の本筋になってしまっている。素直に、時代が変わったのだと思います。
 
また、先日、田村ゆかりを特集していた同人誌を見ていて、そこではギャルゲーでの役柄については沈黙していたのですが、ギャルゲーヒロイン声優ゆかりんであるからこその苺であり檸檬であるとみたとき、最終話の彼女の姿に、なんともいえない寂しさを憶えたことを記録させていただきます。