ソリッドの死

 ソリッドファイターは死にまみれている。つっても、人の死じゃなくてゲームキャラクターであるソリッドの死だ。それもわざわざ、データが丸ごとロストしてしまうような念入りな形での死。それぞれのソリッドごとの経験値の蓄積は失われ二度と戻らない。作中、アルティメイトソリッドのプレイヤーである主要な登場人物たちは相手ソリッドを次々とロストさせてく。敵役も、主人公のスダケンも、ヒロインの一人も、明確な意志でもって相手のソリッドを死に至らしめる。当り前のようにソリッドのロストが発生しまくるゲームではない。基本的には、ソリッドの死はめったに無いこととされた上で、バンバン死ぬ。

 劇パトで、ヒロインの野明は自らの手で零式に最後の止めを刺し、全てが終わって涙を流す。一方、劇パトのイメージを借りてるであろうソリッドファイターで登場人物たちはアルティメイトソリッドというゲームと自ら育て上げたソリッドを愛し、真剣勝負のみならず殺伐一辺倒でない和気藹々としたコミュニケーションツールとしての側面を楽しみながら、相手ソリッドを殺した罪の意識とかの水準で(表面上は)悩んだりしない。

 自分で書いてて「そんなの当り前じゃないか」と思う。が、ことコンピューターゲーム周辺の創作事情だと、なぜかその当り前が、当り前じゃないような話になったりする。

 どうも「ゲームなんていう、すぐリセットできてしまう安易な代理現実や仮想現実にハマってどうこう」といった、まぁ、ステレオタイプなゲーム批判のスタイルを仮想敵とみなして、その批判の構図に乗っかった上でひたすら反論し続けているような部分が、ある。で、互いが互いを見ていないような反論のための反論でしかないようなところに軸足があって、延々と足踏みし続けているように見受けられもする。

 プレイ中の気分を外に持ち出して説明することが困難な「ゲーム」という題材が、ネトゲや何やかやの事情も絡んで「仮想現実」とゆー何がしかと混濁してしまっていて、まぁ、そういう奇妙な錯覚というのもひとつの現実には違いないのでそれはそれで面白い題材なのだが、そればっかじゃないよね。

 例えば、ある種の「リアルな死の実感をゲーム中で受け取っている新文学なのだ」的な論考というのは、逆にいえば「現実世界での死をゲーム中の死と同じ形で捉えている」という論考になりもする。で、ゲーム中の死というのは、しばしば、ソリッドの死のようなものだ。そんな論考で物事を捉えて議論をリードされたりしたら、いくらなんでも困る。