問題という言い方が皮肉以外の何かだとしたら

 困る。つか、遣手婆あっぽい。

 普通、映画の筋書きに使われる男女のラブストーリーて、作ってる側的には殆ど形式に要請されてるレベルで推移してると思うんだけども、観客の側としてはそこから目を逸らすというのは意外と至難に近い。構造で割り切って見る観客もいるかもしれないが、そういう態度でスクリーンを見ても痩せ枯れた骨組みしか見えないし、そんなの幾つも見てると飽きるのが普通で、そういう視聴態度のヒトは次第と離れていくしかないのが普通だ。で、作る側はそゆのを了解したとこで形式に要請されるような男女の話はダメということを専門学校あたりで習ってるはずなのだが、まぁ、実際に作らなきゃならない側としては意識の使い分けは難しいのだろう。そうして人は声優にしか興味を持たなくなる。(そっちに追い詰められていく)

 にもかかわらず骨組みの骨を拾って喜んでるように見える人たちがいるというのは、作品に興味なくて作家のほうに興味があるクチだと思うのだが、僕の感覚ではそういうヒトは歴史の教科書を読んでるほうが幸せになれるし作家よりか政治家や資本家や科学者の話をしてたほうが話せる相手が増えるような気がする。が、まぁ、創作について語らないといけない捩れた事情があるんだろうと察することにする。アニメはトレンディ、みたいな。

 何が言いたいかというと「BDはラブストーリー」だとか「パト2は「行き場のない30代男女の話」」だとか「イノセンスは「蒲団」」だとか、カントクのプロットをなぞった物言いだよなーと。

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 例えば、パトレイバーの劇場版の1は絵柄(キャラデザ)で原作ファック、が押井ファン的見所で、ロケハンでリアルな背景を追及したの凄いんですよとゆー某アニメ評論家の解説に付け加え、キャラデザ変更に説得力をつけるためにリアルに描きこまれたヨゴレ背景を追及したのだと書くと実に押井的一貫性に溢れた解説が成立する。そうした立ち位置からすると、写真トレスしたような「リアルな背景」の前に瞳の大きい少女漫画的萌えキャラが立っているのが基本の今の「リアルな背景」なんぞはパト1で狙った意図から全く反しているわけで、そうやって追っかけてくと当り前だが押井的な原作ファックの思惑は常に観客やフォロワーに裏切られるしかないわけだが、そゆ切断の繰り返しを「問題意識」「問題系」とか連続性で呼ぶのって、えらく妥当性を欠いてると思う。