んでさらに。

 さらに話を進めてくと、この本のそういうセクトっぽさが導出されるに至った原因というのが、この本で批判したいような評論業界の事情しか見てないから、となるのだが。

 エバを持ち出したのは、そっちの業界の話を参照するしかないような話題であるこの本の題材を扱うにあたって、そうした業界話題に依拠していることを見透かされて話を循環させないようにするのが目的だったんだと思うんだけども。エバ自体の周辺事情をあまく見積もりすぎてて、話の狭さが不自然に際立ってしまい、結局のとこ、評論業界の内輪事情を参照することでしか、この本の正当性が見出されないようなことになってる。

 いろいろ、やめとけばよかったのに、と思うような内容です。読まないにこしたことはない。

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 参考になるかどうかは、わからないのだが。

 俺が、サボりまくってたゼミの教授から、おこぼれにあずかって思い知らされたのは、歴史というのは、歴史家という一個人が、この世界と対決し、描画する、あるいはその絵を見出すという、確たる意志であって。それは、一人称を使うことのない一人称の語りであります。けして、人称を持たないということではないし、俺が、ワタシが、あたしが、と書けば許されるというものでもない。