もちろんいやみですよ

 つづき。

 まあ、純粋な瞳の人がみたければ、どっか金持ちのお嬢さんを篭絡して囲んどくか、新興宗教の人をつかまえて話しあってみるか、わけのわかんねえ企画を持ち込む電通やら博報堂やらの企画屋さんの自信満々のプレゼン姿でも見とけばいいんじゃねえのと思うのだが、そこはあれだ、金銭価値に換算できないような方向性じゃないとダメなわけだ。あとで挫折して、挫折した彼と同じにならないといけないから。

 つまるとこ、挫折する・失敗するのが前提で、その挫折する前のものが失われたよきものになるわけだが、それは単に希少だから市場原理として相対的に価値が見出されるだけじゃないのかと思う。<a href="http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-184.html">金持ちの価値観を中産階級以下がありがたがって導入したがる</a>というやつ。

 まあ、このへんについては、俺が目のくさった人だから、こういうねじれた見方をするということなのだろう。

 さて、このような二重構造をセカイの前提とすることで、たとえば、以下のような考え方が可能となる。

・商品を大量に売って売上をアップするためには、多少の廃棄リスクがあっても棚全面を埋め尽くすぐらい商品を並べないといけない。

のは、正しい理屈だ。

・商品を大量に売って売上をアップするためには、多少の廃業リスクがあっても町の街路を埋め尽くすぐらいチェーン店を並べないといけない。

のは、よくない。

 もちろん、同じ構造だ。でも、モノは捨てていいけど、ヒトは捨てちゃいけないというような理屈で、二つは区別される。で、ヒトとモノをわかつのは何かといえば、瞳が輝いているかどうか、である。瞳のハイライトが消えたレイプ目だと、彼女はもはやヒトではない。彼はリアル世界でもレイプ目とハイライト目を区別できる。ヒューマニズムというやつだ。もちろん、彼は知っている。ハイライト目など幻想だ。ホンモノなんか既に失われているのだ。けど、実はホンモノは失われておらず、どっか彼の知らないところにあるのだ。彼はホンモノがどこにあるか知ってはいけない。知ったら消えてしまうのではないか。ホンモノなんてやっぱり既に失われているのではないか。そうして実際にいるわけでもないフィクションの女の子の瞳のハイライトが消えていくことに執着する。彼はかつてホンモノだった、彼はかつてホンモノだった、彼はかつてホンモノだった、そうして彼のホンモノとニセモノを確かめ続ける。