キミのひとみは100まんぼるとー。

 中学1年のときに、成績が悪いので富士山の勉強合宿とゆーのに行ったのだが、そこで初日の夜に「お前の目が腐ってる」とかなんかそーゆー理由でもって、そこの教員に竹刀で殴られたという思い出がある。

 ガキンチョにヒエラルキーを叩き込むために、とりあえず犠牲羊が必要だったんだろーな、てのは後知恵である。まあ、普通に痛かったし怖かった。

 元から川崎でもわりと早い時期に学級崩壊気味だった小学5、6年のあたりで普通にいじめられてる側だったり、いじめる組トップだった子が革命でこっちに転がり落ちてくるのを眺めてたり(あいつはお前のことイジメタって学級時間に言えとか指図されて、それに従ったのかどうかは覚えてないが、その後、転がり落ちてきた子の家のファミコンで遊ばせてもらってたから、余計なことは言わなかったんだと思う)したので、キラキラ輝いた瞳で世の中を眺めていたわけではなかったのだろう。視力も落ちかけていたが、その頃はそれに気づかず眼鏡をかけていなかった、てのもあるかもしれない。

 とまれ、俺の中における俺定義は、だいたいそのへんで「目のくさったようなやつ」ということで落ち着いている。実際、今でも、そう外れたもんでもなかろうと思ってる。

 さておき、そんなわけで目の輝きで人について評価する人とゆーのは、大体そのような人たちであろう、と思うにいたった。

 ざっくり、二重構造でものごとを捉える。ホンモノとニセモノである。ホンモノの価値は、彼が決める。彼は彼の基準を彼自身の意思であるとか精神であるとかによってコントロールしている。二重構造のホンモノとニセモノは、かつて失われたよきもの、つまるところ彼の屈託だか屈折だか社会経験による挫折だかしらんが、そのようなものによって決まっている。挫折する前の価値観はよいものであり、そのあとは悪いものである。蹉跌という断絶によって、二つのものは連続性もなければ対比構造もない、恣意的に決定されたなにがしかである。彼は二つをつなげようとはしない。つながんないものだからである(トートロジー的な真実)。ついでにいうと、そのようなホンモノとは、人間の個性のことである。彼は自分が正しいとは主張しない。そのかわりに、ホンモノとニセモノを見分ける目をもっている。彼はホンモノを見分ける目によって世の中の真実を見抜き、ニセモノだらけのセカイの中で生き抜いてきた。

 といった。