CLANNAD 比較対象となりそうなゲーム作品について

ドラゴンクエスト』シリーズ

言わずと知れたジャパニーズ大作RPGの代名詞。4で勇者以外の視点による物語の複線化、5で家族の絆と血の繋がり(とりわけ父と子の間の絆を中心として)、6では地続きに繋がった現実世界と夢の世界の二つの世界を交錯させ、7では「石版」というアイテムを通して土地の記憶*1を集めていき、世界を一つなぎに繋げていく、といったようにシリーズ諸作品の扱うモチーフがクラナドと完全に被っている。参考までに、ドラクエシナリオのアンチテーゼを目指したと思われる野島一成の手がけた『 FINAL FANTASY VII』『ヘラクレスの栄光Ⅲ』の各シナリオが、母(というか大地母神)をモチーフとして引っ張ってきていることも挙げておく。
改めてゲームの定義というところから書き起こすならば、ゲームとは主観の階層化された状態*2で、「私」を見つめる「私」、という二つの「私」のどちらもが「私」として同時にあるような状態を指す。昔であれば主観にあたるのは「私」ではなく「神様」だったのだろうけど。ゲーム性という言葉、ゲーム的という言葉の、その裏側では常に階層の行き来が頻繁に行われている。(まったく同時に主観が二つもしくはそれ以上あるので、それを行き来と書くのも少し違うのだけれど。)
DQの天空シリーズの天空の城は、そうした階層性(天空は勇者の血筋の来歴の片方である。もう一方は地上の血統)をグラフィックやシナリオの形で記述に明記することによって物語の連続性の中に取り込もうとする試みの表れと見なしうる。ドラクエ1〜2で生み出してしまった「PC=勇者の特権性」の固着した階層概念を相対化させたいという思惑が読み取れなくもない。*3なお、DQシリーズもFFと同様に新作ほど時代が下っていき中世から近世へとシフトするという指摘があることを付け加えておく。
一方のノベルゲームにおいては、「麻枝准の上下感覚」とゲームの階層性との間をどう見るかが読み方の分かれ目という気がする。美少女ゲームという言葉にゲームの階層性を見出しえない(ゲーム性を感じ取れない)人においては「麻枝准の上下感覚」はその代行として機能しているのではないかと想像する。コンピューターゲームインタラクティブメディア)と小説との間に断絶を見て取る、おそらくは大多数の人々からすれば、よくて「麻枝准の上下感覚」的な仲介物を経由することでしかノベルゲームや美少女ゲームは成立しえないのだろうし、そうした「上下感覚」を見出す必要を認めない人からすればノベルゲームはそもそも視界に入らないだろう。
だが、マルチシナリオ、マルチエンディングという並列的な形式そのものが本来であればゲームの形式化された階層性への一つの対抗手段でもある。当初はRPGのアンチテーゼ程度でしかなかったマルチエンディングは、パラメーターといったゲーム内容の複雑化に伴って固定化されていった階層的な要素の排除を徹底することでゲーム性の回復への道筋をつけたのだし、一方で結果論ではあるが小説の持つ単純な意味合いでの時間的階層性(という錯覚)を排除することも可能にした。ごく当り前に「私」を小説というゲームの中に投げ入れる感覚の回復への、マルチシナリオは一つの手法だったのだろうと思う。
階層性を明文化してしまうとき生じるのは、シナリオの連続性によって主観の階層的同時的な二つの在り方が消える事態で、これは階層間に連続性を求めてしまう以上は仕方のないことなのだけれども、その結果、連続性で接続しているのと別の個別の記号の表象先において、断絶が放置されることになる。別の言い方をするのなら、矛盾のないひとつながりの主観の在り方を求めつづければ、それ以外の存在や他者は分断されるし、ゲームにおける別階層の主観もまた排除される。*4それを無意識であるとか私の中の他者であるとかいう言い方で取り戻そうとするのは、多分、作品論にはそぐわない。ラカンの名前を持ち出すにしても、精神分析が元来の元ネタであるというなら、それは「人間の身体(脳含)」というメディアを巡るメディア論であって、受け手が常に人間である以上は確かに受信側メディアのメディア論は不可欠にしても、送信側メディアの話を同時に語らなければ片手落ちとなるのは目に見えているし、主観が二つ階層的かつ同時的に存在するという話を出来ずそうした捉え方への配慮がなされない*5のなら、インタラクティブメディアなど語る意味はない。
とはいえ、結局は「私」が一つであるという考え方が維持されなければならない以上、ノベルゲームはただ純然たるフォーマットとしてしか生き延びる道がないのだろうし、ゲームもまた無限の定義論争に晒されるしかないのだから、この先、作品という形など何の意味もないのだろうけれど。
CLANNAD 』は、『 AIR 』後の、断絶がそこかしこにごく自然に情景に織り込まれている世界観で、そうした切断面を何処に見出すかは人それぞれにしても、もはや切断の先に「私」の入り込む余地はない。別の連続性を覆い被せてみても取り残されるものたちを全て掬い取れるわけではないし、それらを置き去りにしてまでその先へと向かう気もない以上、せめて二次創作に願いを託すぐらいしかないのかもしれないと思う。*6

*1:まず石版の力によって過去へと遡り事件と直接関わりあい、次に復活した地で自身が関わった事件が歴史として語られるのを聞いてまわり、過去の人々との出会いが土地に固着している様を見つめることとなる。

*2:主観とは階層性を指すので、階層×階層という状態がゲームである、というふうにも書ける。

*3:http://storybook.jp/rst/ana3.htmlの2004/6/17も参照。「特定のスクロール方向を持たないフィールドと会話で構成されるようなRPGの形式は,お話に適した形式であるというよりは言語情報で補わないとお話にならない形式である」

*4:多くのゲーム作品では、また新たな階層の主観が形成されることになる。

*5:スポーツマンシップ等の倫理・ルール遵守の根拠が外側からの要請に由来するものであっても、それが「私」を経由することで倫理感覚やルール遵守の意識は採用されゲームはゲームたりうる。

*6:批評も評論も感想も二次創作の一種です。