つづき

 確認するが、楽しんだり、遊んだりするときに、建設的である必要などない。極小差異に意味を見出す遊びも、それはそーゆーものだ。

 矛盾や齟齬をきたすのは、リンク先をバーンと彼方に飛ばしたり参照元を山ほど圧縮して詰め込んだりするようなのをヒエラルキーの上位に置くような物言いと、ミニマムな差異を扱う手立てとが、そのまま繋がるように書かれるからだ。細かな差異を山ほど詰め込むほど、言葉の自重はどんどん重たくなる。たいがい、その重さに耐え切れなくなって、余計な部分を切り捨てることになる。つまり、文章を読むにあたって、読者自身の読みに不要と思われる部分を大胆に切り捨てることを余儀なくされる。そうして、用意された言葉の9割方をそぎ落として手に入れた跳躍先とゆーのは、いったい、読者自身の思考の範囲の外に出ているのか、という話になるのだが、逆に言えば、建設的であることを否定し自身の殻に閉じこもり些細な数値の上下に一喜一憂するオ ナニー上等の開き直りこそ、WIZ筆頭にしたコンピューターゲームのゲームプレイの醍醐味なので、まぁ、それでいいのだ、という結論はもちろん導き出しうる。

 誰の役にも立たないというのは楽しいものだ。役に立たなさを、それを望まない他人に押し付けるのは、道義的倫理的にみてどうか、という問いはあるかもしれないけど。