青フルチンは神などではない

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 気がつくとゲームシナリオや映画シナリオのシナリオハウツー本が10冊以上も本棚に並んでるのだが、原作をポイと与えられて機械的にハウツー適用するとこうなるだろうと納得する自分が嫌だ。ところで涼元本第2版はコンセプト的に「書きたいものがある人を補助するための小技裏技的な豆知識」が基本線だったので、分量を増やしただけ「いざとなれば積極的に無視していい軽めの小技がすごく大事そうに見える」ハウツー本的泥沼にどんどん陥ってる気がする。

 アイドルの存在価値が社会全体に通用した時代を求め設定を80年代に改変したアニメ版ホワルバに対し、原作の社会性や現代性を追い求め続けた紆余曲折の果てに原作発表時の80年代冷戦真っ只中に時代を戻した映画版。アメコミヒーローに対応する日本文化はアイドルであり、一方でウルトラマンマリリン・モンローが共有する半ば開いたままの唇から推察される日本のヒーローと「銀幕のヒロイン」が照応し、それが開いたままの口のバートン版ジョーカーと閉じたままで笑い続けるダークナイトジョーカーさんとの分水嶺になっている。原作コミックで顔の傷が口の端から口裂け女のように斜め上へと大きく引き攣れ、つまり「顔の半分」が「ダークナイトジョーカーさん」であるようなスマイルマークが原作のコメディアンで、人物造形もそのように描かれるのを「原作に忠実」を目指したはずの映画で頬傷が多少目立つ程度に変更したのはまさかフリークに配慮したわけではあるまい。顔の半分に貼り付けられた笑いを取り去る大幅な変更をキャラクターたちに加えた。その延長上に2回目のヒーロー集会クライムバスターズ結成イベントから姿を消したキャプテン・メトロポリスや刑務所のトイレの前でヒーローコスチュームと便意について滔々と語るはずだったダンの沈黙がある。全体の微調整は相当なものでゾンビを走らせる男にはゾンビを走らせるだけの力量とやり方があるのだと感心させられるが、それでも原作未読者からすればロールシャッハのコスチュームはそれだけで強い内面性を見出しうるしヒーロー禁止条例下での各々の身のふりようを巡る原作の設定展開は色を消しきれるものでもない。微細なバランスに労力をかけたがゆえに文脈に強く縛られる不自由さを得てしまった姿はフルチンの造形と重なっている。