遠藤浅蜊『魔法少女育成計画restart(前)』(宝島社KL!文庫)ネタバレかなり多め・けっこう文章長め

魔法少女育成計画 restart (前) (このライトノベルがすごい! 文庫)

魔法少女育成計画 restart (前) (このライトノベルがすごい! 文庫)

前作の感想(http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20120626)が思いのほか反応いただいたので、調子に乗りました。
さらに調子に乗ってアフィリンクをいっぱい貼りました。
検索してみたらダークナイトのDVDやブルーレイが時価600円とか900円とかいう金額で、どんだけ売れ残ってるんだと、そっちに驚いたり。
さておき、かなりネタバレ気味になってしまったので、先に作品を購入され読み終えてから、こちらを読まれることを推奨します。
ということで、さあポチって
 

 
 
 
 
 
 
……では、改めて。
まさかの続編は、テーマ的に言うとかなり「ダークナイト」ぽい、アメコミのヒーローレジェンドで幾度となく繰り返し語られてきた何か、に近い内容でした。

アメコミヒーローの場合、その存在意義を掘り下げていくと、観念的な正義論は勿論ですが、具体的に警察や軍、政府による治安維持と別に自警行為(ビジランテ活動)に走るのは正しいのかという、隣接的には銃の個人所有の是非であるとかKKK団とかいった、かなりディープに政治や歴史、アメリカという国家の根幹に関わるテーマに嫌でも関わっていきます。アメコミ問題作「 WATCHMEN 」の世界における最初の実在ヒーロー、フーデッド・ジャスティスは、あからさまにKKK的あたりの何かを意識したと覚しき(処刑人の覆面に、首に絞首刑を思わせるロープをかけている)ですし。

では、魔法少女でアメコミヒーロー物と同じように掘り下げられるかと言いますと、これは、当たり前ですが元々が違います。「 WATCHMEN 」のシナリオをそのまま引き写して魔法少女に適用したのが伊藤ヒロ「アンチマジカル」でしたが苦戦しました。魔法少女という存在を掘り下げるといっても、そも「魔法」というのが現実に根拠をあまり持たないファンタジーです。魔法や魔法少女についての設定も作品ごとに異なりますし、やってることが千差万別すぎて漠然とした善行についての問いかけにならざるをえない。設定を突き詰めたところで絵空事ですから、アメコミヒーローのような社会的な深みが得られるわけではありません。
しかしそれでも、そのようになってしまっている。魔法少女は、まずは形からという、いかにも日本的な、中身の欠けたスノブなあり方として提示されることになります。そんな中で前作「魔法少女育成計画」では、ザクザクと殺し合いをしながら、登場人物たちは魔法少女のあり方について、それぞれの形で意識していました。

姫河小雪にとって、魔法少女は永遠の憧れだった。
幼少時、熱心に視聴していた「ひよこちゃんシリーズ」では可愛らしいひよこちゃんの活躍に一喜一憂し、そこから「スタークィーンシリーズ」「キューティーヒーラーシリーズ」に入り、悪と戦う少女達の勇姿に魅了されてきた。
(中略)「メリーさん」「リッカーベル」「みこちゃん」などなど。魔法で人を幸せにし、どんな危機にも挫けたりしない。自分は将来彼女達と同じ魔法少女になるのだ、(P34)

スイムスイムにとってのルーラとは憧れだった。君は今日から魔法少女ですと決めつけられ、困惑していたスイムスイムに魔法少女としての生き方を説いてくれた。その姿は、夢の中で思い描いていたお姫様そのものだった。スイムスイムはルーラの教えを忠実に実行した。(P107)

黒檀の小机の上にコンパクトを置いた。小さな鏡の中に女がいる。三十九歳。もうすぐ四十。くたびれた中年女のテンプレートのような姿に笑みが零れた。右肘と左肘を同時に曲げ、顔を撫でるように左右へ、同時に叫ぶ。
「カラミティミラクルクルクルリン! 魔法のガンマン、カラミティ・メアリにな〜れ!」
鏡の中にくたびれた中年女はもういない。(中略)変身に呪文やポーズは必要なかったが、カラミティ・メアリが幼少時に視聴していた魔法少女もののアニメではそれがないと変身できなかった。ならば自分もやるべきだろう、そう考えた。(P192)

「世界中の人間を救いたいわけじゃないし救えるとも思ってない。でも中宿の人達を……仮に通りかかっただけの人だとしても、見捨てて逃げたらもう魔法少女じゃない」(P202)

スノーホワイトの知っている魔法少女達なら、きっとそうするからだ。彼女達は死ぬまで……死んでも自分を貫く。(P280)

登場人物たちは魔法少女ゲームを積極的にプレイする程度にアニメの魔法少女に関心があり、アニメの魔法少女像に憧れ参考にしています。漠然とフィクション世界の魔法少女に倣いますということで、作為的にシミュラークル風味です。思弁的というより、そうあれと思い描く形に実践を通して描かれていく魔法少女像。いや殺し合いですが。そしてフリルいっぱい花いっぱいリボンいっぱいのファンシーなコスチュームに身を包み、しかし一方で積極的に戦いに身を投じる、現代オタクアニメ風魔法少女への道が開かれます。
ここでようやくアメコミヒーローと対比されるような勧善懲悪のヒーローにして純真可憐なヒロインである魔法少女が成立し、「アンチマジカル」が狙ったような、あるいは「まどかマギカ」のように少女をイジメてナンボな展開が可能な舞台が出来あがりました。ここまでが、一作目です。
 
その舞台を得た続編である本作では、かなり自覚的に「ヒーローに憧れてヒーローになる」「魔法少女に憧れて魔法少女になる」、実際に制度的に現在進行形で行われている魔法少女の活動に対する、後追いの形での「魔法少女とは何か」という定義づけを作中に折り込んでいきます。

アメコミ比較が非常に便利なので延々と使わせて頂きますと、「 WATCHMEN 」はシンプルな悪党退治を行っていた(それで挫折し解散していった)第一世代と、ヒーロー活動が巻き起こした警察ストなど社会不安の世相に巻き込まれていった(そのまま現実の諸問題に深く関わっていった)第二世代を対置し、第二世代の捻れを通してヒーローのあり方を問い詰めていきました(WATCHMENは問題をヒーローに還元しないというか、ヒーローは物語のためのツールのような位置づけなので、ヒーロー論にはならないのですが)。例えば、第一世代ヒーローに憧れて二代目を踏襲し、引退したくせにコスチュームを着用しないとエレクトしない変態メタボ中年と化した二代目ナイトオウル、といった。
フランクミラーの「ダークナイト・リターンズ」ではバットマンの自警活動を追いかける後続たちに、いってみれば飲み込まれそうになりつつ、バットマンというヒーローの既存の姿を自らの手でぶち壊していき、ヒーローとしての自らを問い詰めていきます。
そして映画「ダークナイト」でも同様、冒頭からバットマンに憧れた偽バットマンが悪党退治にしゃしゃり出て、バットマンの存在の正当性を問い詰めました。「リターンズ」と異なり(まだ若いですから)偽物たちを「オレとお前じゃ別物だよ」とすげなく退けつつも、やがて現れるジョーカーもまた、「オレはお前の鏡だ」と、バットマンのあり方を後から勝手に定義づけしようとします。(ジョーカーが偽バットマンを嬲り殺す姿には、バットマンの本当の姿を理解しているのはオレだけだ、という嫉妬に近い感覚をも見て取れます)

本作「 restart 」で描かれるのは、魔法少女像に対する、「ダークナイト」のジョーカーが仕掛けたようなイデオロギー闘争です。今回の黒幕と覚しき人物は述べます。
 

「だいたい魔法少女に強さが必要っておかしいと思わない−?」(P50)

 
ぶっちゃけてしまえば。
まどかマギカリリカルなのは、こんな最近の、魔法少女として、実際どうよ? 正統派じゃないし。正統派つったらさ、やっぱりジュエルペットとか〜」
という、オタな外野の物言いを、作品内に持ち込んでいるのですね。それも、魔法少女達にデスゲームを仕掛ける黒幕側が問いかける形で。黒幕がやっていることは「ダークナイト」のジョーカーよろしく
「お前ら魔法少女の正しさ(悪さ)をオレが検証してやるよ。HAHAHAHHAHAHAHAHAHAHAHA!!!」
というものです。
 

「『子供達』は証明してみせればいいだけだよ。自分が正しい魔法少女だって」(P103)

 
その「正しさ」とは何か。まだ前編ですから、作中での解答は示されていません。ただし、確実に言えることがひとつ。アメコミヒーローの「正義の自警活動」という現実的な問いの枠組みと同じだけの社会的背景を、魔法少女は持ち得ません。強いて問い詰めていけば、「善いこと」「善」とは何かという話になってきます。それらは先に述べたようにアメコミヒーローの「正義」「自警行為」ほど判りやすいものではありません。
ですが、それでも作中では見事に、古典的かつシンプルな問いとして、「善」とは何かを問うてきます。つまり、
 
「私利私欲のために魔法少女の能力を使うことは是か否か」「公と私のどちらを優先すべきか」
 
公共益のために尽くすことが、あるいは本来的に「善」ではあるのでしょうが、しかし話はそう単純ではありません。なぜなら、魔法は、社会の中に本来的には組み込まれていないものだからです。公共のために尽くすことが他者から認知されることはなく公表されないまま、私的行為としてのみ粛々と行われる。他者に認められることなく、どうしようもなく自己満足でしかない。
魔法使いサリーなりなんなり、元々が、あんなこといいな、できたらいいなの自分の願望を実現する夢の手段としての魔法ですから、私欲に使うのが本道なんです。それを偶々、他人のために使ったところで自分のため、自己満足であることは変わりない。
しかし、善行というのは、「情けは人のためならず」というように、めぐりめぐって自分のためでもあることを、社会や公共というものをどこか片隅に据え置いて行われるものではないか。全く報われることのない魔法による善行とは、一体何なのか。そもそも他者からの倫理的評価をけして得ることの出来ない、自己満足であるような善行は、いったい、どこでもって善悪の判断を下しうるのか。たとえば悪い魔法少女を殺すことは、(社会的判断を経ることがないとしたら)善なのか悪なのか。

こういうふうに「魔法」について、魔法を使って行う「善行」について、倫理的判断を、公共概念や社会や宗教に頼ることなく、他人からの判断に寄らず、ひたすらに自己で突き詰めていくしかないというのは、なるほど宗教のない国・恥の文化・横並び礼賛の和の国、日本ならではの問いであろうとは思います。ひたすらに地味で実のない、答えの出ない、小説にする意味があるのかすら疑問を投げかけられるほどの、私的な問いかけ。それを他者に突きつけたところで、どうにもなりません。その「どうにもならない問い」に駆動される物語が、本作であるといえます。
 
これは実は、古典的な魔法少女作品群でこそお馴染みの問いですが、最近の知られた作品ですと、忘れられがちな問いです。セーラームーンプリキュアも明確に巨大かつファンタジーな敵がいますからそれらを相手に戦っていれば基本的には気になりません(セーラームーンの初期は、けっこう公私の狭間で悩んだりするネタが投入されてるのですが)し、「カードキャプターさくら」あたりではCLAMPの内面志向に引きずられてますから、魔法を人助けのために使うことが主要テーマではありません。「まどかマギカ」に至っては、「自分の望みと引き替えに」ということで、「魔法の効果を私欲に適用すること」をあっさり認めています。私欲を満たした分だけキリキリ働けということで、そのへんシンプルに出来ていましてディープな悩みにはなりません。近作で引き合いに出されがちな「ジュエルペットてぃんくる」なども魔法が当たり前に存在するジュエルランドが主要な舞台ですから、現実世界における魔法での善行という話にはなりません。
 
まだ前編ですから、後編がどうなるかは判りません。ただ、今現在、提示されている黒幕の問い「正しい魔法少女とは、どうあるべきか?」は、上記に述べてきた通り、ひたすらに空虚な響きでもって作中の惨劇をより救いのないものに貶めているように見受けます。少女達の殺戮劇を、死を、価値あるものとして描写するのと、どちらが上品なのかは知りませんが(たぶん、どちらも下品なのでしょうが)、ぼくら辺りのひねくれた読者が望んでいない物でないことは確かです。

後編を楽しみにしています。