「スーパーマン」(1978・ディレクターズカット)/「スーパーマン2」(リチャードドナー版)

パート2は、2部作として作成されながら諸般の事情で監督が中途降板したのを残されたフィルムで再構成したもの。
そのへんの説明はwikipediaで。
そういった事情もあり2では1ほどスーパーマンがSFX効果で大活躍するようなシーンは殆どなく、スタジオ内でこじんまりと製作した程度の見た目に収まっている。
世評というか全世界で周知のとおり「大人の鑑賞に堪えるスーパーヒーロー物」として完成度は言うまでもなく見事なもので、本作の後の世代のアメコミジャンルへの影響というのは映画・コミック問わず、かなり大きかったのだろうと推察される。
やはり引き込まれるのは、作中で初めてスーパーマンに変身するシーン。
墜落してビル屋上に引っかかったヘリを救済すべく、まず電話ボックスを探そうとし、見つけた公衆電話が箱型じゃなくこういうのだったのでそこでの変身を断念。そうこうしてるうち、いよいよヘリが落下しそうになったため一刻も早く!変身しなければという焦りを自動車の行きかう路上を無理に横断することで表現し、横断したところでスーツをはだけて胸のSマークがスクリーンに大写しになる。ここまででコミックの要素を意識したコメディタッチを織り交ぜつつ緊迫感を高めていくのに成功してて、完璧。
つぎ、有名な回転ドアを使っての変身シーンがあり(これだけで「人の目には見えないほど速い」演出ができてしまう)、そのまま空を飛んで救出に向かうのかと思いきや、路上でチンピラに例の星条旗カラーのコスチュームへのツッコミを入れさせて、さらりと視聴者のツッコミを封じてしまう。
・・・完璧すぎて、後からこの手のヒーローものを作る人たちが苦労するのも判るというか。
ブライアンシンガーのX−MENでのコスチュームをめぐるやりとり(ウルヴァリンが黒タイツなコスチュームに文句を言うとサイクロップスが「じゃあ黄色タイツのほうがよかったか」と返す)も、こういう過去作の積み重ねの上で成り立ってたんだな。シンガーのX−MENで原作コスから黒基調のコスチュームへの変更やらかしたけど、黒コスだって冷静に考えれば恥ずかしいのである。
今度の2013版スーパーマンは全体に黒っぽくなってて、それに対し「今どき、あの赤青カラーは出来ないからね」っていうファンからのフォローがあるけど、1978年の当時だって、実写でコミックのそれをそのまま再現するのは恥ずかしいって気分はあった上で、作劇でフォローしてるわけで、やっぱ昔のバージョンのほうがウィットに富んでてスマートだと思う。
で。
「スーパーマン誕生までの話」が思ってた以上に長い。これは今回のと同じぐらい長い。けど方向性は全く別で、1978版はスーパーマンというヒーローが、メトロポリスで活躍し続けることを前提に話が作られてる。ヒーローは、悩んだりもするけども、ヒーローをやめたいとも思ったりもしたけど、ずっとヒーローであり続ける。ロイスと結ばれた記憶を消して、スーパーマンはヒーローとしてメトロポリスで活躍し続ける。それは孤独な道かもしれないけれど苦痛に満ちた求道者の自己満足ってわけでもない。スーパーマンの力を取り戻して最初にやることといったら、普通の人間になったときに痛い目にあわされたチンピラに一泡吹かせるという、かなり個人的な感情に基づくリベンジだし。そんなもんですよね。
一方の2013年版は、宣伝で公言しちゃってるけども「生まれてから死ぬまでの伝記を作る」って代物で、だからスーパーマンはヒーローじゃない。というかヒーローを作りたくないからヒーローじゃないバットマンやヒーローじゃないスーパーマンという話を作ってるのかなあ、ってな感じ。
んで。現代はヒーロー不在を描かなきゃいけないのか、と言われると、んなこたーないだろう。
ヒーロー否定は「子どもっぽい・稚拙な」と言われたくないから「大人の鑑賞に堪えうる」という形容が欲しくてやってる、程度のものである。元々が子供向けのものを大人向けにしなきゃいけない、という、変に歪んだ制約を課せられた中で話を作ってるからこうなるわけで。俺ら日本人はこういうの知ってる。ガンダムって名前でナンカ作らなきゃいけない、ガンダムの名前で縛られて迷走してる、ファンや作り手や制作物たち。それで執拗に作劇上はヒーロー否定に走りつつ(んで群像劇とか言い訳して焦点がボケただけの代物になったり)、けども形式としてガンダム最強ガンダム大活躍ガンダム超カッコイイは守らないといけないから、煮詰っておかしなことになり、それをハイコンテクストと称して引きこもる。
カッコイイもんはカッコイイし、そこは否定してもしょうがない。DCのここんとこの映像化の迷走は、カッコよさを肯定するために、周囲からツッコミが入りそうなところを小理屈でガードを固めて、それが逆に世界観を地に足つかないものにしてしまってるがゆえ、という気がする。(ガルパンも構造としては同じ。戦車という<カッコイイ>を守るために、余計なツッコミが入らないようガードを固めすぎて融通がきかなくなってる。どうも軍オタクラスタ反戦論者や反武装論者に対し極端な恐怖や拒絶反応を抱いてフォビアになってるように見受ける)
思想家が何をどう読み解こうと、人は物語を通じてしか物事を捉えることができないし、物語には主人公があり、主人公ってのはつまり、言葉通りのヒーローである。ヒーロー不在は物語不在ってことだが、物語不在で話が通じるわけがない。ちょっとカッコよくないヒーローはいるだろうし、ほんの一時、一瞬だけのヒーロー不在のタイミングは生じるかもしれないが、そんな状態がいつまでも継続するはずもない。作り手がヒーロー不在の枠組みを提供したとしても、受け手はそれを受けて読み解くために各自のヒーローを見つけ出さざるをえない。作中の登場人物に見当たらなければ作者や評論家、時事から連想される現実の人間を引っ張り出してきて、枠組みを再構成してその場に主人公を据える。
んで、受け手の好き勝手な選択でヒーローを見つけさせるとなれば、その決着点に安易な選択が生じるのは当たり前である。ヒーロー不在の物語を気取った末に、チャチで子供だましなヒーローが視聴者や読者によって選択され見いだされる。
作り手が物語を提供するというのは、受け手に勝手な物語を見出させず、力でねじ伏せて、複雑な背景を背負いつつ骨太の骨格で物語を支えるヒーロー像を受け手に飲み込ませることである。
1978版のスーパーマンは、そのことを十分に認識させてくれる、圧倒的な力強さがあった。