「ダークナイトライジング」と「アベンジャーズ」ネタバレ

アベンジャーズは見事なまでに「マジンガーZデビルマン」でした(いやマジンガーデビルマンのほうがアメコミのそーゆークロス物の影響受けてる可能性のほうが高いけど取りあえず)。凄いなと思ったのはストーリーが本当に16ページに収まるんじゃないかぐらいにシンプルで、残りを全部戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘戦闘で埋め尽くしているという豪華感でしょうか。これが日本だと戦闘シーンにかけられる予算配分は幾らまでとゆー判りやすい区切りで、2時間のうち30分だけ戦闘するから残り時間は上手く引き延ばしてね、となるので、「日本よ、これが映画だ」という煽りキャッチはB29で全日本焦土化とゆー感じに物量で押しつぶす意味で非常に正統であったと思います。実際、ここまで何も考えず戦闘ばっかりだと、キャラクターを知らなくても取りあえず楽しめます。一部のキャラだけクローズアップされないで不完全燃焼とはなりませんし、2時間でアベンジャーズやれっつったら、これしか手はなかったのかと思わされる程度に見事でした。

要約:ヒーローが画面狭しと暴れてれば他はどうでもいいんだよ!

一方で凄まじい制作費がそういうオマツリ感にちっともならない、ヒーロー不在のヒーロー映画ダークナイトライジングです。

あちこちで見かける宣伝もレビューも、前回の「ダークナイト」のジョーカーとベインを対比させて語ってるんですが、今回ジョーカーの立ち位置にいるのは明らかにキャットウーマンでした。バットマンの存在に対する狂言回しという位置づけにしても、役者さんの素晴らしいハマりっぷりにしても、リアリティを追求しすぎて面白すぎることになってる点も、あとコスプレ対決(看護婦VSメイド)にしても。

ノーランによるバットマン三部作は、原作コミックへの読解としては近年稀に見る、きちんとした読解と理解の下にバットマン像を描いていて、その中で、バットマンに肉薄しているキャラとして見た場合、ジョーカーとキャットウーマンの両者がポパイ・オリーブ・プルートーぐらいにワンセットであるという見立ての元に「リアルなバットマン像を描くには」をやってるんだなと思いました。
つまり、
バットマン自体はどうしようもなくコスプレ変態自警団だとしても、その周辺を徹底的に<リアル>に描くことで、バットマン像を逆照射できる」
という計算。周辺てのが、ジョーカーでありキャットウーマン
ダークナイト」では、ヒースレジャーが見事すぎて、バットマンを<リアル>方面に引きずりすぎてしまってますが、その「<リアル>の泥沼」からバットマンを救済する(その気にさせる)のがキャットウーマンであるというのも、実に見事であると思います。

僕は、例の「世界精神型悪役」という用語でジョーカーを語るのは、意匠登録違反じゃないかなーというか、そのワードで語るのは伊藤計劃だけでいいと思うのですが(大して当てはまってないというかその単語だけではあまり意味のない定義なので、他人が咀嚼せずそのまま使って何かを語るのは恥ずかしい)、ジョーカーが対峙していたのは、やはり比重として全世界というよりはバットマン一人に対してでして、「バットマンというヒーローの活躍を期待してバットマン映画を見に来る観客に対し、バットマンを通して対峙する」とは言えると思いますが、ヒースレジャーが凄すぎてクリスチャンベールが、あるいはバットマンのマスクが、受けきれてないというバランスの悪さがあり、結局、全体の印象として、バットマンいいとこなしで負けてしまっていた、というのが「ダークナイト」でありました。

んで「ダークナイトライジング」ですが、まず言えるのが一見さんに不親切な、シリーズ前作を見てないと困るような代物であるとゆーこと。なんせ人間関係が全員過去作のしがらみで動きます。メインの敵は1作目からのリベンジですし、ゴッサムシティは「ダークナイト」の事件の影響によって警察権力が不当なまでに強化された歪で不均衡な街となっていますが、そんなん、ちょっと見ただけじゃ判りません(実際、ライジングでも説明しきれてません)。けども、「ダークナイト」を見てる僕らは、弱々しく杖をつくブルースウェインを見ることで、バットマンという正義が敗北しゴッサムが朽ちかけているのを知ります。それはつまり架空世界であるゴッサムが現実世界という下界に引きずり落とされ断末魔の喘ぎ声を上げているということになるんですが、まあ、知らずに見たら判らないですよね、そんな文脈。

で。

そんな敗北に打ちひしがれるブルースを引っ張り出すのが、そしてブルースにバットマンとしての復活を期待する視聴者を引っ張って画面に活力を与えるのが、これがもう圧倒的にキャットウーマンである、てのが良いんですよ。

ジョーカーという境界の怪人によって現実世界に引きずり落とされたヒーローが、現実から異界へ踏み出す猫さんに魅せられて、再び虚構世界へと舞い戻る。出来すぎの構成ですが、もう、これだけでバットマン映画として十分すぎる。一度バットマンが復活してしまえば、あとはもうファンタジーワールドゴッサムシティで何やってもオッケーなんです。これ、本当に素晴らしいので、繰り返し強調します。キャットウーマンVSジョーカーのバットマンを巡る綱引きなんです。

ここで、たぶん気にしとかないといけないのが、ゴッサムシティの意味合いが非常に強いこと。おそらく、ゴッサムシティによって、バットマンを定義し位置づけようという思惑がある。なんせ、劇中で、ブルースはゴッサムを離れればバットマンでなくてもよくなる、と言っちゃうわけです。他の都市で犯罪が起きててもバットマンとして活躍しないよね、と。キャットウーマン・セリーナはブルースにゴッサムを出ようと再三に誘う。ジョーカーはゴッサムを支配しようして市民にメッセージを送りつけるわけですが、なんでかといえば、ゴッサムがすなわちバットマンである、ということなんです。ジョーカーは市民を試すという以上に、ゴッサムゴッサム市民の奥底に見えるバットマンを試す。バットマンであるブルースを試す。

ビギンズもダークナイトも、バットマンは本当にアメコミヒーローのあのバットマンなのかと思うぐらいに弱かったのが僕は気になってました。バットマンを描くために腑分け解体やりすぎて、逆にバットマンじゃないとすら思ったわけです。
ですが、ライジング見終わったら納得したといいますか、むしろ「バットマンであろうとし続けたブルースウェインの物語」として首尾一貫してるじゃないかと感じ入った次第です。それがアメコミヒーロー物映画として正しいかどうかは別です。なんせ「バットマンというヒーローに憧れた一般人」しかいない、バットマンなんか本当はいなかったんや、と言えちゃうわけです。

「<ゴッサムの守護者バットマン>は幻想でしかない」なんて書くと、ホラ、オシイっぽいでしょ。それがつまりゴッサムシティを守るという部分を延々と三作も続けて描いてきた理由じゃないかと思うんですね。ブルースとゴッサムが向かい合って焦点を結んだところにバットマンがいる。

今回、ライジングが劇場版パト2のアレコレを引っ張ってきている(これについちゃ、橋破壊までは置いとくとしても、雪のゴッサムを戦車走らせる絵面にしても、パト2の気球による脅迫を彷彿とさせるベインのアレにしても、これ本当にアメリカ政府かよと総ツッコミの入りそうな弱腰大統領にしても、どう見てもパト2だよなーと思わざるをえません)というのは、バットマンを映し出す、半ば主役の片割れですらある、<リアル>な幻想都市ゴッサム、という位置づけが、主役不在のまま映画を走らせようとして「東京」を主題化した劇パト劇パト2と期するところが一致したんでしょう。バートンの描いたゴッサムと違って、まるでNYマンハッタンでしかないような、にもかかわらず、アメリカの主要都市のどれでもあるような、どこにでもあるしどこにもないゴッサム

あるいは、伊藤計劃のブログを読んで、「ジョーカーが帆場? パトレイバー? おおコレ使えるじゃないか」と思ったのかもしれませんが。