エロゲのはなし続き

 で、そういうビジュアルノベルの「読解の制限」が、逆に快楽になってて、そこで読者層を獲得したのがあると思うのね。

 それを最も判りやすい形で提示したのが「ひぐらしのなく頃に」の「正答率1%」で。どこぞの講演でコミュニティを組織することこそゲームなりと解説してたらしいのだけど。読み方をある程度まで制限することで集団を一定方向に誘導することで得られる快楽をよく理解してると思うし、だからこそその手法は批判されるべきだと思うのだけども、さておき、その「読み筋の限定」てのは、エロゲのビジュアルノベルでいえば、キャラの心情読解に読者の興味を集中させてキャラ萌え信者を作り出してった事実の背景になってると思うの。そういう読解のコミュニティに参加する快楽を肯定し再生産する市場として、エロゲやら萌えキャラやらの生産消費の仕組みが整備されてきてるのではないかしら。

 んで、文章読解の、そゆ制限のあり方に対する反発の試みも、ONEあたりで既にされてるという話をしてたのだったね。「右」と「左」を選ばせるみたいな、どっちを選んでいいのか判らないような選択肢こそが決定的な分岐だったりする。ところが、そうした「理解を拒絶する選択肢」さえも「選択によって正答に至った」という結果からのフィードバックによって意味付けられ読解の中に組み込まれていくことも判っていた。そうして「質ではなく量こそがギャルゲーである」つまり会話内の正答率に関係なく会った回数が相互理解に繋がるようなあり方を肯定しようという提唱があり、そうして質、つまり変化や変化の密度をエロゲのシナリオに求めない態度が実際において選択され、物語展開に寄与するような文章は慎重に排除され重要性の薄い会話を中心にしたテキストが増大していき、かつて鍵ゲを攻撃する際に短所として指摘されたようなキャラのユルさ、白痴性が全肯定され、キャラもシナリオもユルければユルいほど(読者の読解の余地を拒むため)良いとされる時代になった、というところまでは共通認識でいいよね。

 問題はね、そうしたユルさもまた、キャラクターという同一性に還元されることで質の側に立ち戻るようになってることだと思うの。結局のとこ、読み筋制限による快楽を一度知ってるから、そっから抜けらんないという。

 続く。