アキカジの話の続き

 エロ関連。

 その表現でアピールされてるのはキャラクターなのかエロなのかは割と混同されがちですが、方向性としては全く違います。具体的にはエロコミックの単行本は例外を除いて1話1キャラの読みきりが10話ばかりまとめられてる。キャラクターが立ってるからエロいんだよ人気漫画のパロディじゃないとエロ同人だって売れないんだよと言いつつ、一度エロに至ってしまえばそれでエロ担当としては終わりなのがエロ業界。

 なんでか。ざっくり言えば非エロ業界は「普通はエロくないものにエロを見出す」のが、エロ業界は「エロいものをエロくなくする」のが商売だから。

 エロコミックで例外的に一人のヒロインのエロだけで単行本1冊分持たせる手法があります。調教です。調教は直前のエロを非エロとみなす。1話目のエロはまだ序の口で、最終話から振り返ると全くエロの入り口にも達していなかった、つまりエロだと思っていたものが非エロになっている。そういう犠牲となったエロの先にディープなエロが成立する。不感症と引き換えに大人の味覚を得るわけです。非エロジャンルは逆です。他の人がエロティシズムを感じてなかったとこに、一般的なエロを介さずエロを見出すような過敏症が尊ばれる。

 エロ業界と非エロ業界の境目を軽く見て表現は自由で境界などないとか思い込むと、エロという「境界そのもの」であるような何かを見失うわけです。ここにおいて境界であるようなエロというのは果てしなく落ち込んでいって底の見えない谷のようです。谷の両側とも互いに向こう側は見えているし、それは確かに地続きですが、どこが境界であるかなどと指定は出来ません。非エロの側からどんどん踏み込めばエロの領域は果てしなく広がっていきますし、エロの側から攻めていけば非エロの版図も無限大に拡大していきます。

 で、キャラクターというのも、似たような意味で「境界そのもの」であるような何がしかです。エロと同様「人」という単位の様々な形式や形態や器や支配領域を指してキャラクターと呼ぶのですけど、「人の枠組みや領域じゃないものに人の領域や枠組みを見出す」のと、「人の領域だと思われてたとこを人じゃなくする」のがあるわけです。前者が普通「物語」と呼ばれてるもの。後者がゲームです。ゲームという言い方を嫌う人もいますが、通常、世間で使われる意味でのゲームという単語が一番適切だと思います。