ラブとエロ

 例の、よしながふみをやたらな勢いで持ち上げてる学会系の漫画評がバカっぽく見える、という話だけど。あるいは川崎市民ミュージアムでの「少女マンガパワー!」展示がテーマも考察も全くなく単なるジジババ金持ち向け原画展に堕してて酷かった、という話。

 結局、「B級・ジャンク文化」としての少女漫画を読まずにきた、てことなんだろう。二丁拳銃やサブマシンガンで数千発の弾丸を大量にばら撒くのと全く同じレベルで「好き」「嫌い」「愛してる」の「本当の気持ち」が乱射され大量にばら撒かれていく感覚が理解されないらしい。えーとね、某キャラのギアス能力って、CLAMPキャラを使ってるアニメの設定としては最高の皮肉なのです。ルルって典型的な優柔不断ハーレムアニメ主人公だけど、そーゆー「好き」「嫌い」を誤魔化し続けて一対多数の関係が継続するのってCLAMPだとないっしょ?『ちょびっツ』ですらハーレムじゃない。

 少女漫画は雑誌中の短編読みきりの比率が多いけど、それは何より「本当の気持ち」を間断なく撃ち続けるために採用された形で。んで「24年組」だの「乙女ちっく」だのを追っかけてる年かさの男の子らを出し抜くようにして、そーゆー「B級」な部分を引き受けて「少女漫画」じゃない形で高河ゆんがあってね。だから『Kanon』の「投げっぱなしの5つの純愛」は、ある意味で少女漫画的な「B級文化」の一つの達成で、そして突破口でもある。

 そんな大量消費される「好き」「愛してる」なんてダメ、だろうか。んでも、二丁拳銃でばら撒かれる弾丸の一発一発が、当たれば怪我して血が流れて悪ければ死ぬモノであって。人の生死に直結するものを数百、数千、数万と垂れ流していくのを指して喜んで見てるのをサブカル文化つって大事に守りたがってるのと比較して、ひとつひとつが紛れも無く純愛であるような「本当の好き」が当たり構わず乱射されるのが理解できないはずもないでしょう。もちろん、主人公の心理の連続性を担保にして成立してるジャンルとは致命的に相容れないけど、それ以外だったら十分に成立する。

 よしながふみとCLAMPは同一線上に語れる代物なんだけど、CLAMPに席巻された理由が何なのかを問わずに来たから、オタが10年前にCLAMPに引っかかったのと同じ形を繰り返すようにハイカル層がよしながふみに引っかかってる、と言えるんじゃないかしら。