ざっと見

 昔よく、『Kanon』あたりの「泣きゲー」を指して「人を殺せば盛り上がるに決まってるし、作る方も楽でいいよな」といった言い方をしてるのを見かけたけど、そーゆーのは言わなくなったなぁ、と。

 まぁ、言わない理由は別にあるのだが。

 仇討ちや心中は、言ってみれば世界意思の発露で。吉川英治より前の巌流島の芝居・講談の粗筋は仇討ち物であるとか、『巨人の星』の基本は仇討ちの形式であるとか。天意の実現とでも言うか。天意は民意で、誰も文句をつけられない(文句をつけたら日常生活を送れない)ような常識とか良識なわけだが。だから、その手のは溢れてていいし、そこらに転がってないほうが異常ですらあるのだが。あるいは、そーゆーのを仮託するための水戸黄門月光仮面であり。

 もちろん、そーゆー天意や民意に逆らってウダウダと余計なことを語るのが個人の自我に拘る輸入物のメロドラマだったりするのだが。

 ナンパゲーは言うまでもなく天意に反するし、海外のメロドラマにも反する。そこからさらに複数の女性とそれぞれに純愛を語りあうなんてのは先鋭的に過ぎた。あのへん、純愛が複数あるからこそ刺激的で挑発的で反社会的でインモラルだったのだが、まぁ、作ってる方も遊んでる方も、それに耐えられなかったわけで。

 そっから頭を使わず常識や良識を求めれば、関係者まとめて閉じたハーレムに追放するか、痴話喧嘩でバトロワになるか、そら二択に決まってるが。痴話喧嘩で刺しといて親や警察すら出さないと聞き。反動の挙句そうまで常識の檻の中に逃げ込むとはなぁ、というのが雑感。ネット右翼とはよく言ったもので。

 なんつーか。

 まぁ。

 本当に、頭悪くなったんだねぇ、と。