メイド

>「メイドが描けていない」「メイド服が描けていない」という評価を支えてくれる権威や素材や検査装置は存在しない。

>ギャル作品に登場する「メイド」は、現実に存在する人間を代表=表象しない。

>オタク文化におけるメイド像が拡散しないでいるのはなぜか? 答はひとつ――「萌える」「萌えない」という基準によって、不適切なメイド像を切り捨て、優れたメイド像を残しているからだ。

>私はここに、「萌え」という概念の存在理由をみる。

http://kaoriha.org/nikki0301.htm

 ちょっと昔の「萌え」論だが、このメイド論は、そのまま『水月』の雪さんの解説に使えそうだ。雪さんは死なず求められないときは消える。前にも書いたが、『水月』で死の概念を持つのは那波のみ。

 まあ、時代は変わり「現代のどこかに、メイドがそのへんで当たり前に働いている世界がある」という上リンク先の言葉が某所では現実のものとなってしまったわけで、「ギャル作品に出てくるメイドは、現実の人間(メイド)を代表=表象している」ような見方も成立するようになったのだが。

 さて。
 僕が気にするのは、上記の「萌え」の概念の解題は、メイドという例においてのみ成立する、という話だ。つまり、『水月』において、眼鏡も巫女もツインテールもいるなか、メイドである雪さんだけがただ単一の存在であり、求められない(萌えない)と消えてしまうという性質を揺るぎなく持つのだが、それはメイドであるがゆえにそのような形をとったのではないか。

 そして同じ理由によって現実世界にメイドが呼び出された。巫女やウェイトレスや特殊学生服のコスプレでは既に本物がいて、オタクを外から特長づけられないから、という至極現実的な理由により。

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 雪さんの描かれ方が「母性的」であるとは誰でも口にしそうな話だが、その描かれ方ゆえに雪さんは母親にはなりえないような存在として扱われる。おそらく雪さんと対峙するのは「とらハ3」のノエルで、それぞれの性行為に対する態度によって対極に置かれる。かたや主人を想って人知れず自慰にふけり、かたや相手の快楽を導き出すために感じている表情や声、態度まで「模倣」する。一方は世界でただ一人に選ばれない限り消えるヒロインで、一方は結婚相手の従者。