5月14日追記

あーいや。
>自己の固有性の感覚(もちろん錯覚)
が与えられるプロセスの話をしているつもりだったんですが。だから「見る人」を「観客」に書き換えたりしてたんで。



「固有性」はつまり「私」の揺るぎなさということで、それは「超越的な私」と同義だ。ツンデレなキャラクターとその周辺が何をしてもどんな状況に陥っても、「見て」いる「私」は揺らがない。「あなたが『えらい』と思った」も同じく。要するに階層化を指すのだから、上だろうと下だろうと(実際には階層があるだけで上も下もないのだが)別の階層の出来事は「私」を揺るがせはしない。それが錯覚なのはいい。問題はその錯覚が成立する過程。「私」は同じ系に内在して干渉し影響を与えあうものではなく、ただ見るものに過ぎない、つまり、「見る」は「干渉する」とは別のことでなければならない。観客の存在が舞台の上の出演者と同じく演劇を構成する全体の一部であることは、ここでは忘れられる。「見る私」の「私」という主語を隠蔽することで「私」は固有性(超越性)を与えられる。
で、

それ(ツンデレ)とは我々が仮構するストーリーであり、キャラクターに内在する属性ではない。そのような投射に都合のいい相手。

オタクな世界の言葉の使い方では、「萌えの属性」とは「眼鏡っ子」「メイド」「幼なじみ」「ロボ」「ツインテール」「猫耳」といったものだ。それらは全て、そのような外見や特長を備えることで我々が仮構するストーリーが投射されやすくなったキャラクターの、その「投射されやすいストーリー(内面)への共同見解と、その投射されやすさ」を指していたはずである。「キャラクターに内在する属性」がどのような意味合いで使われているのかは知らないが、通常「メイド」「エルフ耳」「ドジっ子」と並列的に扱われる「ツンデレ」を「ツンデレ」として指すのなら、上の引用先で扱われるそれは通常に言われるツンデレからずいぶんと遠く離れているように見える。その結果、

「ぼくのまえでだけすなおになるかわいいおんなのこ」というシチュエーションがツンデレという単語で再発見され》た、という見解をここでは踏襲

しながら、

そこにはあなたの人格特性や好みや偏見が深く関与している。各人の人格特性や好みや偏見の数だけツンデレは存在可能である。

となる。
おそらく「私」が「萌える」の「萌える」を意図的にか削除したときに、話がおかしくなっている。「萌える」が「愛する」などと異なる「慎み深い自動詞」であるという指摘、の話がここでは忘却されているのだが、「萌える」は上の引用先で言うところの「仮構したストーリーの投射」を言葉の内に含んでいる。別の言い方をするなら、デレは時間経過であり、先日の「萌えの研究」に従ってハイデガーを持ってくるなら存在することそのものであり、「萌える」もまた存在企投であるなら、明らかに「ツンデレ」の語の内には「萌える」という行為が丸ごと抱えこまれている。もしくはキャラクターの存在のあり方を巡って「萌える」と衝突し、排除しあわなければならない抜き差しならない問題が持ち込まれている。
それが「解離的」なのはわかりきっている。
「私」はなぜ「強気キャラ」ではなく「ツンデレ」を見出さなければならなかったのか、なぜ「ツンデレ」を見出した後、「メイド」「幼なじみ」「妹」と同列であるかのように扱わなければならなかったのか。
例えば、ひとつの回答がある。
ツンデレとは、他の誰かに恋している女の子のことだ」*1
逢坂大河でも里村茜でも実例を探してみればなるほど一つの説明として卓見と思う説明だが、このことは何を意味するのか。
彼女が他の誰かに恋をしても、その相手に振り向いてもらえない、という事態。彼女は他の誰からも理解されない、彼女が振り向いてほしい相手からも。それはつまり、「私」が「ツンデレ」な彼女を放置しておいても、彼女を他の誰かに寝取られることもなく、いつまでも処女のままで、彼女を「自分のもの」にしておけるということではないのか。恋愛模様に参加することに疲れ、キャラクターを愛するなどと口にするのさえ倦み、「萌える」の語を極力薄く軽く、できれば使わないようにしたい。けれども、「萌えキャラ」を利用した二次創作活動は手放したくない。
それはおそらく、「消費」したくないが「生産」はしたい、という事態ではないかと思う。二次創作が氾濫する状況を見て「旺盛な消費」「消費速度が速い」と評するのはおそらく事態を根本的に取り違えている。
「私」はただ「作りたい」のだ。
それは「創作によってアイデンティティを得る」のとは、だいぶ意味がずれてきている。日々の食事や呼吸や睡眠と同じぐらい自然に普通に意識されず行われる、常態的な「作る」がそこにはある。以前、「萌え」とは擬似的な二次創作活動である、と書いた。*2入ってくる情報が多すぎて出力も増やさないとバランスがとれないのかもしれないし、発言しなければ存在しないのと同じと思われることへの恐怖なのかもしれない。今ここでやくたいもない文章を書き続ける自分自身でも、なぜ書いているのかなど本当のところわかっていない。
「作る」ことが悪いことだと糾弾する気はない。それはもう、ここに来てしまえば良いも悪いもありはしない。作るしかないのだ。
作りたいが消費したくない「私」がツンデレを見出す。



あと、一応書いておくと、上記では「私」と書いてきたが、実際はおそらく「私」ではなく「私たち」だろうと。それに従って

私がいなくなれば、彼女の真の魅力を知るものはいなくなるだろう。だから私は生きなければならない。このようにして我々は、己の存在の固有性を基礎付けることができるのである。

を書き換えると、「私たちがいなくなれば、彼女の真の魅力を知るものはいなくなるだろう。だから私たちは生きなければならない。」となる。そこに単体としての「私」はいないし、もちろん「私」単体の固有性が基礎付けられることはない。固有であるためには常に「私たち」でなければならない。「公衆便所」*3という指摘はそこで顕在化する。
「萌える」という言葉にまだ厚みがあった頃なら、「私たち」から「私」だけが指し示され取り出されるのはさほど問題とはならなかった。だがおそらく、今となっては萌えているのが「私たち」であることは何より隠さなければならない事実だ。そのことも「萌える」という動詞を「萌え」に言い換える動機のひとつとなっている。ツンデレという他者からの働きかけを前提とする関係性を中心にすえた概念を、個々のキャラクターに属するものとして従来どおりの「萌え属性」と同列に扱わなければならない。それは別に萌えるオタクばかりの話ではなく、作品を作家に属するものとして扱おうとする行為にも現れる。そこでは読者という「私たち」は徹底して隠蔽される。キャラクターにストーリー(内面)を見出すのが「萌える私たち」であるように、作品に内部構造を見出すのは「読む私たち」でしかありえない。だが、その働きかけを明示してしまえば「私たち」は超越的な「私たち」ではなくなってしまう以上、「私たち」と作品との関係は隠蔽されなければならず、しかし外部からの働きかけとして生じた作品構造やメッセージといった代物は作品外部の主体を必要とし、その主体として作家が選ばれる。公衆便所としての作家を用意しなければ、「私たち」は小説を読むことすらままならない。そこでの「私たち」は消費などしていない。ただ作るだけだ。排泄するように。



というようなことを、木田元あたりを読みながら思った。