召喚魔法と異界の越境と その3

 もちろん原理主義に過ぎても結局は誰も見てくれない。どうも、個人主義の小説を模倣しつつ、他力本願、仏教説話の変奏みたいなのが強引に封入されてるフィクションは当り前にあるようで、FF10も最終的にその一つに収まるのではないかと思われる。

 そゆのは大体、ジャンル物にパッケージングされることで成立していて、ジャンルの形式上の約束事に忠実に依存しておけば見かけ上の破綻がないので、SFとか推理とかロボット格闘とか魔法少女とか少年漫画とかゆってジャンルさえガッチリ決まってれば、とりあえず問題をやりすごすことが出来ることになっている。

 この場合の問題は、何らかの事情によりジャンルのお約束が機能しなくなったとき、途端に「リベラル色のジャンルフィクション」が「保守反動のノンジャンルフィクション」へとゴロリと様相が変わり思想的倫理的に怪しくなることで、要するにジャンルの枠に引きこもってないと「新しい」モノなんて市民権を獲得できないし、ジャンルを越えたとか言われてみれば嫌になるほど古色蒼然たる全体主義の既存社会擁護モノになりおおせるしかない。

 今は、そのへんは気にしても仕方ない。問題は、コンピューターゲームとはどのようなジャンルなのか、である。ジャンルのお約束を知らなければ売れない。

 まず、コンピューターゲーム全体をひとまとめに括るジャンル性は今のところ薄い。作り手の勢いもまだまだある。ただし、RPGやシューティング、戦術シミュレーション、格闘ゲーム、ノベルゲームなどは、「本流」としての細分化されたジャンルであり、それぞれのお約束が確立しているといえる。もちろん、市場を大きく買い支えるのはジャンル物である。

 さて、RPGで全体を決定付けるのは、繰り返される戦闘とシステムでサポートされるレベルアップ制度で、敵を戦って倒し、設定されたファンタジー世界において最強となることが、物語の外枠を設定する。RPGのプレイを開始することは、戦って勝ち頂点に立つ構造に同意することである。
 RPG自体は、映画や小説と違って「一本道」ではないことに注意。この戦闘システムの構造がドラマ展開の弁証法(「ゲームシナリオのドラマ作法」では徹底して弁証法に依拠したシナリオ作成論を解説する)と類似構造であるために見かけの重ね合わせは可能だが、拠って立つのは異なる構造である。

 続く。