焼いた犬

 犬が死んだので火葬してもらった。

 個人的な話でいうなら、祖母の死に立ち会ったときの「死ぬってこんなものか。これなら死者の復活とか割とカンタンそうだな」とゆー感想以来、死生観みたいなものについては取立てて変化はない。

 その後、祖父の死んだときの感想として「葬式って、別に悼み悲しむでも死者を想うでもないとこで成り立ってるよねえ」という話を現代文の作文で提出したら、トチ狂った教師がNHK青春メッセージに応募し、しかも神奈川の地区大会に通ってしまって、他のかたがたの「介護を通して人と人との繋がりをどーこー」「消防活動で頑張ってどーこー」みたいなスピーチの中、やたら斜に構えた高2病的な批評家面した文章を朗読させられた(青春メッセージがどーゆーものかすら理解してなかったので暗記すらせず、つっかえながら読んだ。アドリブで余計なことを付け加えたかも)。ラジオでそのまま流れたらしいが、今ならそーゆーナナメな批評風発言もまた青臭い若者らしさの発露なのだなと思いもするが、当時は熱く主張するでもない醒めた感想を青春メッセージと題して聞かされる人は嫌だろうな、とか勝手な心配をしたものだった。

 そんなわけで死者を悼む感覚はよく判らないので、それっぽい儀式や儀礼には極力倣うようにし、死者と袖すりあったようなときは、なるたけそれっぽく振舞おうとしてる。今回も、なんつーかチャンスとばかりに「ペットの葬儀」のようなものに仕立て上げようと画策し(禁じられた遊びの葬式ごっこのようなものだ)、火葬の焼却炉つきの車に来てもらい、骨拾いまで一人でずーっとくっついて眺めてた。ペットつっても中型犬を住宅地で火葬はしないだろうと思ってたら、それこそ犬の散歩コースで歩いてた、親子連れが軽くキャッチボールするよーなとこで目立たない外見仕様の車をとめ、そのまま2時間ばかしで焼く。きけば許認可も特にいらないそうで、ならペット火葬と言いつつ人間を焼く裏家業は絶対あるだろーな、都会のあちこちで廃熱だけで煙も出ないまま、たくさんの人が焼却されて消えていくのだな、とかそんな。人を殺して死体を見つからないよう処理するのは大変だと述べる殺人事件ドラマは道徳教育の代行なんだなあと改めて再確認。

 それにしても、俺は死の簡単さよりも出産と育児の困難をこそ基準にして死生観を組み立ててくべだったんだろう(つまり教育を受けてない人間は人間じゃないという態度)な、とは後知恵で思うが、まぁ、今更。