自意識過剰だとは思うのですが、

鋼屋ジンがPUSHの8月号でツンデレ語りやらされてたんだけど、シグルイ虎眼流から論を起こすのはいいとして、ストーリー性を属性に包括とか時間の概念を含むとか書いてて、それだけならいいんだけど
「あんたがさんざんツンデレツンデレいうから調べてみたんだけどさ」「別に私当てはまらないじゃないっ」
「少しでもそういう感じに見えたらあとは皆が都合のいいように脳内補完する時代なんだよーーっっ!!」「ちっくしょう なんでもアリなのねーー!!」

なる文章を引用してて、あげくに後半「やがてまた新しく生まれた何かも記号化され、消費され、磨耗し、形骸化するだろう。しかしまあ、構うまい」「かわいい女の子を。素敵なドラマを。その根本的な欲求が絶えない限り、必ず何かが生まれ続けるのだ」とか冒頭の引用からだいぶかけ離れたヤサぐれたオチをつけてて、なんかこう、うわ、正直すまんかった、とか思った。

なんかなー。TG12月号ぱれっとえむぴぃ」の記事でも「『もしも明日が晴れならば』でも後姿の立ちCGなどをふんだんに使った演出がユーザーから好評」とか書いてて(後姿の立ち絵の演出自体は、ぱれっとの1作目から継続してやってることで別に新しい要素ではない)、なんか気のせいにしても気持ち悪いというか、余計なこと言わんほうがいいよなあ、とつくづく。