続き

背景に明確な形を与えず、ただ、なのはの両親や友達になのはの行動を説明したり、フェイトの母親に素性を与えるといった間接的な形でのみ魔法少女という設定に社会性を与え、その社会的な肯定によって二人の少女は自らが魔法少女であることの価値判断を突きつけられることなく先送りすることができる。そうしてはじめて、二人の行動や意思は肯定されることになる。

さて、上記のことはすなわち、時空管理局などで大して意味もなく連発される用語に代表されるように、全てがオタク文脈に依存していることを示している。問題が「魔法少女」や「ロボット」という特定要素への収斂ではなくなり、作品に散らばる諸要素全体(変身シーンで裸になるとか、レイジングハートが無駄にメカメカしく変形するとか、メイドや獣耳が出てくるとか、松岡由貴演じるオペレーターのアホ毛をクローズアップするとか、エロゲーが元ネタだとか、DVDのおまけで必ず声優インタビューがついているとか、主人公が田村ゆかりだとか)に負担を薄く広く分散することで目を逸らしたわけである。
当然、なのはやフェイトの境遇や、彼女らの健気な頑張りといったものも、それらアニオタコミュニティ文化圏に回収されることになる。つまり「主人公の動機」は最初から「既知の情報と社会秩序へ回収」されている。

ということで、大きなお友達向けの暇潰しアイテムであること自体は別に悪ではない、と意見を訂正させていただく。
騒ぎ立てて失礼した。