魔法少女まどかマギカ 11〜12話。

つまんなかった。まあ、それはいいや。誰も面白い話なんか求めて見てたわけじゃないだろうし。

とりあえず
http://togetter.com/li/127910
を元にツッコミを入れてみる。

雑な作りなので、骨組みは判りやすい。まどかがいないセカイが今のセカイみたいなオチから先に作ってあったんだろう、ぐらいの代物だった。そっから、イマドキだから魔法少女の人数は増やさないとね、人数を増やしといてそいつらで話を作ってけば話は埋まるよね、といった順序で出来上がっていったと想定される。水増しメンバーのいらなさ具合はかなり酷くて、3話か4話で黄色が死んでそのまま10話に突入しても誰も困らないぐらいのノリだった。実際、11話の戦闘シーンは黄色の戦闘シーンと重ねて作ってあるが、そこまでの配慮が青や赤に対してぜんぜんなされてない。

オチが先行してたとゆーことで、じゃ、なんでそんなオチを先行で思いついたかが問題となるだろう。で、リリカルなのはと監督同じだし、アニメ雑誌リリカルなのはばっか溢れてる状況下「魔法少女なんたらかんたら」とわざわざ名付けるんだから引っかける気まんまんなのは言わずもがな。「なのは」なる最強魔法少女にオチをつけて葬り去ることが目標とすると、まあ、納得がいく。最強パワー魔法少女を強引に葬り去る話、とゆーことで、そういやリリカルなのはの与太話を書いたなあ、と思い出して探してみたらユーノくんの言動がどっかの宇宙生命なきゅうべえまんまで、自分でそれを書いたという事実にゲンナリした。が、小説もろくに読まないよーな奴がてきとーに思いついて書いてもそうなるよな、ぐらいにきゅーべーという造形はテンプレだ、とゆーことの証左かなと思って、まとめたのが上のリンク。

そうすっと、まどかとほむらとゆー組み合わせは、まぁ普通に考えて、なのはとフェイトなんだろなーという類推で、さほど外してないだろう。この二人の関係にしか興味がありませんとゆー制作側の意識が丸出しなのも、なのはとフェイトがモデルとすりゃ当然である。

フェイトじゃねーやほむらが唯一まどかのことを憶えてるとかそゆのについては、視聴者信用されてねーな−。キャラの心情しか視聴者に訴えかける窓口がない、という判断がなされてるから、フェイトの心情に寄り添うこと、という形式と「まどかの物語」が等しいものとして扱われる。キャラクター単位で売るからには物語もキャラクターの心情とまるきりイコールで語りうるものでないといけない、みたいなセールス原則論が働いてるんだろう。日本でドラマつくるといちいち辛気くさい心情語りが長尺入るが、それのイマドキ版。

だいたい枠組みとしてはそんなとこ。で、その枠組みを固守してるんだなー、という目線で見ると他の筋は全部投げっぱなしだった。まどかの家族を無駄にクローズアップする理由てなんだろーといえば、ラストで人身御供になるのが判ってるまどかの「何不自由なく暮らしてる普通の女の子」ぶりを強調するためとか、そんなかんじで合目的な理屈がつけれる。

説明終わっちゃったなあ。

個人的にはシステマティックに商品化、とゆーより商品をパッケージするための包装紙として用意されてる少女の心情に寄り添うとゆーのは、いちいち書かなきゃいけないことなのか、というのがわかんない。包み紙は包み紙でしかないし。共感すれと言われりゃそりゃ共感はできるが、食い過ぎで「苦しいつらい」ゆってんのもメロドラマなマンガ読んで「苦しいつらい」ゆってんのも親友なくして「苦しいつらい」ゆってんのも、俺はどれにも共感できるという程度にどれも同じ包み紙だよなあ、としか思えないし、そんだったら別に白い紙を眺めてて「苦しいつらい」とか口に出してみるのもあまり変わらない気がする。秋葉原のホコテンにトラックで突っ込むってどんな気持ちだったのかなあ、と想像して共感するのも理屈としちゃ同じだし、きっとカレはフェイトと同じぐらいつらかったんじゃないかなあ、とか想像して共感しました、みたいな感じで語れる世の中だったらいいのになー。