なのは感想修正

つまるところ、魔法少女にしても人間そっくしなロボットにしても、その単語で思考停止を強いる率が高い。

思考停止要素を世界観にあらかじめ組み込まれたものとして放置したまま陰鬱にシリアス路線を突き詰めていくと、必ず問題の核心がその思考停止の要素に収斂していかざるをえない。例えば「魔法少女でいること/魔法が存在することが諸悪の根源/全ての問題を解決する鍵」になる。宝探しゲームで見つけた正体不明の物凄い力を秘めた代物を「こんなものがあるからみんな不幸になるんだ」とぶっ壊す、アレである。これは必ずそうなる。帰納的だろうと演繹的であろうとなる。必ず思考停止しなければならないのだから。

リリカルなのは」でいえば、なのはが友達に本当の事情を言えず喧嘩してしまうのは魔法をめぐる事件を相手に説明できないからだし、フェイトが苦労させられるのは魔法で作られた存在だからである。彼女ら二人はそこで停滞に陥らずに自らの道を模索する、となるのだが、少女たちが魔法少女であることから自力で脱出するのは基本的に不可能である。実際、6話で行き場のないところまで追い詰められる。

念のため。6話は最低最悪である。
6話まで見たときに僕は「魔法少女ものなんか今後一生見るものか」と叫んだ。

結局そうした袋小路は、7話の時空管理局の登場で打開される。すなわち、メタフィクション展開に近い解決で魔法少女という概念を相対化させるのである。「3人目の魔法少女」が必要とされるのは、「魔法少女」をいわば職業の一種と呼べるレベルまで一般化・社会化させることで、なのはやフェイトの立ち位置を「現実」に着地させるためである。時空管理局がそのような要請に基づいて設定される以上、それは厳密なSF・ファンタジー世界的な設定でバックアップされるものであってはならない。そうなってしまうと、なのはやフェイトの意志や行動は、今度はそうした世界設定に絡めとられてしまう。
<世界の秩序が強いる本質規定を逃れ、あらゆる「既知」への回収を拒んで、まだ見ぬ未来へ向けて自己造型してゆく「実存的」主人公である>ためには時空管理局はそのへんの漫画やアニメで粗製濫造されるそれっぽい単語を連発するだけのグダグダな設定でなければならなかったのである。