多分、これを外すと何も語れない、というのがあって。
現在は「エヴァ以後」でも「タイプムーン以後」でも「AIR以後」でも「雫以後」でもなく、「シスタープリンセス」以後だということ。
近親相姦のモチーフは様々なジャンルであって、特に少女漫画では定期的に繰り返し取り上げられて(クローンのもう一人の自分を求める、みたいなSF的なモチーフも含めて)いることは藤本由香里あたりで取り上げられている。ただ、注意すべきは、90年代前半までには少女コミック系列あたりでは新人レベルの作家でも父娘や兄妹や姉弟のセックスがフォーマット的にお手軽に取り上げられ消費されるようになっていて*1、あるいは少女漫画の影響著しいエロコミックでも90年代後半には近親相姦はタブー意識は放置されフォーマットとして完全に定着する程度に普及していた、ということは押えておくべき。
シスプリはそうした流れとはやや異質に、ギャルゲーフォーマットの流れで物語中心主義でなくキャラクターを中心に組み立てていく手法の、ほぼ最終的に煮詰めていった結果見出された家族、身内の関係の女性への還元のバリエーションとしてまず登場する。G'sマガジンで同時に開始されたのが『 HAPPY☆LESSON 』(5人の母親)『 ミルキィシーズン 』(主人公は女子寮の管理人、実質的に父親と娘の関係)ということで、単純に近親相姦モノの妹ブームをそのまま狙った類の企画でないことは見て取れると思う。*2
単純に従来的な意味合いでの物語を引き受けられないギャルゲー・エロゲーがガジェットや世界観を全てキャラクターに還元させる方向で進化していき、結果として少女漫画の近親相姦のモチーフが元来追い求めていたはずの、現実の社会や家族の在り方に疑問符を提示する自分探し的な意味合いのキャラクター還元志向を引き受けることになる。そのための経路としての「妹」であり「母」であり「娘」であり「恋人」である。
ゲームのシスプリが「血縁」と「非血縁」をプレイヤーの事後的な選択によって決定するのと同様の、妹であり妹でない、あるいは恋人であり恋人でない、そうした関係の非決定性(与えられた設定としての妹ではなく、自ら選び取る関係としての妹を見出す、ということでもある)に配慮することが、シスプリ以降のキャラクター中心の作品の組み立てにおいて最低限の条件となる。
それは逆に言えば、その段階から既に「別の可能性」(妹を妹ではなく恋人として扱うような…)についても常に意識し言及されなければならない、ということでもある。単にモラリストを装って実妹との近親相姦を無根拠に否定してみせたところで、何の意味もありはしない。フィクションである以上それは唯のキャラクターであり、そのキャラクターを通して作品を引き受ける以上、妹であることと妹でないことは常に同時的である。

*1:短編読み切りであっさりハッピーエンドで締められ、タブー意識への配慮はないに等しい。

*2:ライトノベル完全読本Vol.2の天広直人インタビュー(更科修一郎による)でもとっくに説明されているけれど。