>ロリと匂い
トノイケダイスケのは、わかりやすく言うと、「観念的」です。
http://george-21.hp.infoseek.co.jp/sganswer.html
とかは「ONEのえいえんの正体を知りたい人のためのページ」なので、現物はもっと何も説明してなくて、何もありません。
さくらむすび」にしても、被差別部落問題であるとか近親相姦であるとかそれを巡る周囲の対応であるとか、いかにも「リアル」っぽい道具立てが存在するかのように用意されるのですが、それらは徹底して解析され、主人公の一人称において観念と実際とに解体されていきます。
リアリズムとか自然主義的といった言葉から最も遠い、という意味でミステリ好きのライターというのは非常によくわかる気がします。

この狂った作品において、僕が唯一現実的(仮想に侵食され尽くしていないという意味で)で等身大の感動を味わうことができたのは、瀬良可憐シナリオにおける邦彦との兄妹エピソードだけで、感情移入することができたのは、瀬良邦彦ただひとりでした。実際それ以外の登場人物は"人間"として認識することすら困難です(とはいえ彼も十分人間っぽくないんですけど)。
http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20060219

僕に書かせると邦彦も観念の怪物になってしまうんですが、さておき。
 
観念的ですので、倫理的ともいえます。にじげんのおにゃのこの和尚酔があまくていいにおいがしてごくごくおなかいっぱいのめてしまうということについてものすごく手をかけて説得してくるので、読んでいるとなんとなく自分でも飲める気がしてきて、気がつくと機会があったら飲んでみてもいいかな、と、自分の中の倫理や社会的な通俗概念が変化している。あと実際に飲んで確認するか否かの判断は読んでいる私たちにまかされます。ここにおいて和尚酔というワードはそのまま作品そのものとなるのでした。
和尚酔への通俗的な思い込みは取り払ってやった、あとは、確かめたければ自分で確かめればいい(確かめたくなければそれはそれで好きに妄想なり何なりすればいい、そのような和尚酔への自由な態度決定を受け入れたくないのなら、君はおにゃのこの和尚酔に興味など抱いてないし本当は飲みたくなどなかったのだ、それもまた君の生き方だ)、と、僕は読みました。