続き。

 作中のB世界を、ユニークな「七香」があらゆる可能性に遍在する世界と考えれば母胎回帰は頷けてくるけど、「外界」の刺激が完全に遮断されているのは子宮とは言わないのでは。あの瞬間の光はこの世に生まれ落ちた瞬間の光だと思うんだよなあ。
http://catfist.s115.xrea.com/wiki/wiki.cgi?page=Diary%2F2005%2D10%2D05#p0

母親のイメージが出てくるシーンを反転の瞬間とみなすか、更に遡っていく直前の光景とみなすかてのがキーポイントです。「C†C」のそれまでの設定説明の流れからしても、どちらともとれるように多義的に見えるように採用してると俺はみなします。
母体回帰どうこういうのは、「C†C」をKanon型のノベルゲームをなぞっているという「見立て」や「意思決定の無効性」という仮定を全面採用する形で書いたわけですが、流れを説明すると、2回目のムービーが流れた後、主人公は全員が死ぬ1週間を際限なく繰り返してる世界というのに気づいて、プレイヤーの見えないところで試行錯誤して「自分が何をやっても無駄だ」というふうに結論づけて絶望します。で、絶望しきって行動方針(この繰り返し世界では何をやっても無駄)を決定した後で、その繰り返しの綻びポイントに気づいて、他の人を一人づつ別の世界に送るという行動に移るわけですが、ここんとこで選択肢が出るのを単なる嫌がらせだと考えず、主人公の行動方針が、絶望する前と絶望する後で反転してると見なします。前向きの未来へと自らの意志で行動をとっていく、という意味合いでの選択肢が、絶望によって選択肢と意思決定が切り離され反転し、「俺はお前を選ばない」という意味合いが選択肢の上に乗せられる。
普通に考えると詭弁に聞こえますが、選択肢が意思決定と切り離されるのが「C†C」の肝であるとする仮定からすれば、その流れの発展として「選択肢が『選択しない』という意味を持つ」という反転が、意志プラス(Kanon型のノベルゲームをなぞっているかに見える状態)>意志ゼロ(2回目のムービーが流れる前後、ヒロインの絶望に共感した後、それを受け継ぐ形で主人公が絶望する)>意志マイナス(誰も選ばないという「決意」のもと、全員を別の世界に送る)という形で表現されていると見なすことができる。実際、主人公の行動は、そう考えないと不自然です。1週間の最後に全滅するのを避けるだけなら、それまでのシナリオからすると霧一人だけ送り返すのでもどうにかなりそうに見えますし、同じ時間を際限なく繰り返すという「絶望」と全員死ぬという「絶望」が割合と雑に混合してる。同じ1週間を繰り返してる姿を現象だというのなら、別世界で現実世界のように「普通に」時間が流れて老いて死んでいくのも現象です。このあたりを主人公の短慮や作り手の思慮不足ではなくシナリオ方針の要請とみなすと、他のキャラクターを一人づつ追い返していく選択肢は「選ばないというマイナス方向の意味を込めた選択肢」と見なしたほうがしっくりくる。作り手の意地悪嫌がらせがゼロとは思いませんけど。
で、この「選ばない」という意味合いが後半の流れの基調となっていることが、先日来から言っている「正解への欲望」とシンクロします。
「正解」とは何か。
予定された枠組みにピタリと当てはまる、というのが本来でしょうが、この場合は違います。なぜなら、枠組みを放棄してしまったから。形式的にはエロゲーのエロという枠組みもゲーム(意思決定)という枠組みも放棄し、あるいは「同じ1週間を繰り返す世界」の導き出す枠組みも放棄し、寄り添うべき形は存在しない。というより特定の形に辿り着くこと自体を拒否する。
そうした既存の終わりに辿り着くことではなく。ただ「間違えない」ことが、枠組みを拒絶し続けた「C†C」の「正解」です。無限に間違えないことは正解する事に等しい。(と、この場合は考えられている。)
だから、間違いを選ばない。
だから、間違いを犯す可能性のある選択肢は選ばない。
だから、どれかひとつの可能性を選んだらもうひとつの可能性を潰してしまうのだとしたら、どれも選んではいけない。
だから選択しない。
そうして、選択しない、可能性の領域へと全てを還元し続ける道筋の行き着く果てに現れたのが、自分の誕生した時の母子のイメージです。そこで「母体回帰とかそーゆーの」と呼んだ。
このシーンを死と再生、通過儀礼、どう呼んでも構いませんが、そうした生まれ変わりのイメージで読んでしまうと、それまでの意思決定の無効性を巡る全体の流れからスピンアウトしてしまいます。無垢の純粋な自己を発見してそこからやり直すという発想は、それまでの流れからはあまりにそぐわない。
その逆転のありえない奇跡こそが感動の根拠であるというのはその通りで、実際にそのへんの流れはそう機能しているので、感動してる人に水を差すのは本来ではないというのは、まあ、その通りです。そのまま感動のEDで終われば、それはそのまま、共感はできないまでも、まあいいや、で終わりでした。
ところが、問題のエピローグの話に続いてしまう。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/5403/cc/02_01_ed.html

冬子(起こしちゃおうか、仕返しに?)

で続く一連の発言てのは、まあ普通に考えれば同じ1週間を繰り返す世界で数限りなく殺され続けてきたキャラクターたちからの告発なのだけど、なんでいまさら、でして。感動のフィナーレで終わらせとけばいいのに、わざわざ一言、余計なことを言いに出てきて、その告発すらもほのめかしで終わらす。中途半端すぎる。
ここんとこを上の流れから想像すると、発狂から誕生の瞬間を垣間見て目覚めてから感動のEDまでを夢オチであるとほのめかし、解決して人生やり直しと思ってるけど全然解決してないんだよーとツッコミ入れとくことで、人生やり直しの部分をキャンセルし、そのへんの流れで感動したプレイヤーすら切り捨てて、究極の「正解」への道のり、間違えない、選ばない、決定しない、の無限連鎖へと続けようという意図が見出せてしまう。無理に見出さなくてもいいんだけど、選択肢とか意思決定とかそーゆー話を巡るものとして「C†C」を最上級に「見立て」ると、究極の正解へ邁進してく途中で純粋な自分を発見して終わり、とかよりもっとヤバくてもっと過激な代物が見出せてしまう。
先日に「無限論の教室」を挙げたのは、こういう話。これを進めていくと、究極的には世界設定とシナリオを分割して考えるという異世界ファンタジーRPGめいた発想を自己崩壊へと導きかねないし、あるいは方向を誤ると全ての創作物を否定しかねない。id:K_NATSUBA:20051031#1130788958の発言は、実際にプレイしてないからだけど、そのへんのヤバさについてのツッコミが甘い。
ただまあ、実際には究極の「正解」への道筋はほのめかしで終わっているし、大半の人は「わけのわからんエピローグ」で済ましてるから杞憂と言っちゃ杞憂なんだけど。