上のを「ライトノベルを他人に薦められることに深刻なトラウマがある」とか余計な夢診断しないように。

http://storybook.jp/note/?d=2006-04&m=month#/note/note060402.htm
「全てのヒロインのイベントを上手くこなした上で、ヒロイン全員が主人公の周囲に居着いてしまっているご都合主義エンドの世界がある」
は、「月姫プラスディスク」ていう「歌月十夜」より前に出た500円ぐらいの頒布ディスクでヒロイン座談会をやってる話があって、各キャラクターごとのテーマ曲であるとか裏話であるとかを話の種にして盛り上がるという内容なのですが、そこで出てきた話です。別に「歌月十夜」を指しているわけではなくて、当時、同人であるところの月姫の二次創作ってアリなのか、とか二次創作を作るにあたってオフィシャルの設定あるのか、とかの問い合わせに答える形で、何でもアリアリですよ、大歓迎ですよ、というのを説明するにあたって出てきた表現。*1そんなことをワザワザ質問するのも答えるのも今からすると野暮といってしまったら野暮なんですが、当時は互いに矛盾する二つ以上の独立したストーリーが混ざってしまっているものが「本編」「原典」である、という状況に受け手も作り手もまだまだ対応しきれてなかったというのもあります。「Kanon」だって「一人の女の子が助かったら他の女の子は助からないんだ」というような反応が少なくなかったったわけで、奈須きのこはそうした「ストイックな読み」が公式見解のように広がるのを避けたかったのかしら、なんてことを邪推しています。所詮お遊びなんだからもっと気楽に行きましょうよ、て。
余談ですけど、奈須きのこサブカル組からもエロゲー論壇からも嫌われ者ですが、そのへんの対応は大人でまっとうです。エロ付きビジュアルノベルを手段として選んでしまったこと自体が最大の失敗だ、という極論を述べるのでない限り*2奈須きのこはそうした対応も含めてビジュアルノベルのジャンルにおける考え得る限り最上の良識あるエンターテナーだと思います。
ということで、
「全てのヒロインのイベントを上手くこなした上で、ヒロイン全員が主人公の周囲に居着いてしまっているご都合主義エンドの世界がある」
は、おそらく奈須きのこの中においても「歌月十夜」や「 MELTY BLOOD 」のことを指しているのではないと思います。あえて妄想するなら、読者/プレイヤーが「月姫」や関連作品を受け取ることで手に入れた風景、なんじゃないかな。そうでなかったら、「歌月十夜」でわざわざ夢の中でレンを走らせまわったりしないでしょ。ああ、もちろん「歌月十夜」のディスクに大量に納められた多数の作り手たちによる二次創作群も含めての「夢」なのだと言うならば、それは確かに上のような話と重なり合っているとは思います。

涼宮ハルヒの憂鬱においては涼宮ハルヒの退屈がそれに当たると僕が思った,

については、僕は逆でした。「涼宮ハルヒの憂鬱」1巻目こそが
「全てのヒロインのイベントを上手くこなした上で、ヒロイン全員が主人公の周囲に居着いてしまっているご都合主義エンドの世界がある」
だと思った。それは今でも変わりません。僕の中では「涼宮ハルヒの憂鬱」と「ミルキィシーズン」は同じフォルダに整理されます。そして短編タイトルとしての「涼宮ハルヒの退屈」は、そのフォルダには入りません。
草野球の風景は、もうね、どうしようもなく憧憬の対象なんです。ねじくれてなくてストレートすぎて、僕みたいな人間にとっては、あまりにも眩しすぎる。そんなものが無防備にごろりと投げ出されてしまっていたら、畏怖するしかないんです。さもなくば憎むか。僕はこんなものは知らない。みたことがない。ありえるはずがない。だからこれは厨房で中二病セカイ系で世間知らずのガキンチョな思考のたわごとに違いない。僕はそういうことを考えずにはいられない人種ですから。
涼宮ハルヒの憂鬱」や「ミルキィシーズン」は、僕みたいなのを受け入れてくれるノイズみたいのがある。だからね、全然違うんです。

*1:ちなみに「ひぐらしのなく頃に」でも、推理するにあたって「ここからここまでの情報は全シナリオ共有として扱ってくれてOKです」という解説を「お疲れ様会」でやっています。このへんの節度ある態度が僕としてはむしろ「もっと壊しまくればいいのに」と思わせるのですけど。

*2:僕に本気で言わせるなら、そう言い切ります。ですからその括りには麻枝准元長柾木も当然入りますね。