返事です。

http://d.hatena.ne.jp/giolum/20060302
にて、
ライトノベルに「キャラ/キャラクター」は適用できるか
id:tdaidouji:20060227#p1
の項にご意見がありましたので、その返事です。
まずは、私の文章とその意図の説明だけさせていただきたいと思います。

小説本文の中でのみ「キャラ/キャラクター」を抽出しようとするのはあまり意味がないように思われます。それを抽出するにはまず小説本文の文章の中で生成されてる/読者に読み取られてると思しき階層構造を抽出するのが先決で、まず構造が先行していることを証明した後に「キャラ/キャラクター」を見出すならオッケーと思われますけど、先に「キャラ/キャラクター」を見出すことで逆算的に階層構造を発見しようとするのは無謀かと。理由は「人間」的なものは「物語」なら何処にでも見出しうるから、という先日の話により。

の文意はですね、やっても意味がない、ということです。

<読者の側がもつマンガやアニメの記憶を指し示して読者の想像力を喚起する。>

これ、「キャラ/キャラクター」という言葉を使う必要ありません。「小説本文の文章の中で生成されてる/読者に読み取られてると思しき階層構造」をテキスト読みの段階で判断する、それで終わりです。もちろん、様々な描写の先に「キャラ/キャラクター」を見出してみせるのは可能でしょうけど、それは「できた」というだけの話で、その「キャラ/キャラクター」の差異がその先の作品外の展開、二次創作やメディアミックスへと直接に接続するわけではない。
なるほど『攻殻機動隊』のフチコマのデフォルメされた姿は可愛らしいし、その可愛らしいフチコマの扱われ方は『テヅカ・イズ・デッド』で「キャラ」と呼ばれるであろうもので、その「キャラ」が息抜きとして機能し、あるいは息抜きからさらに「半ばストーリー外からの視点」を導入し、直接的なストーリー展開から少し外れた形で作品の読みの幅を広げている、という言い方はできるでしょう。ですが、押井守の映画版にはフチコマは出てきませんし、TV版はタチコマですね。ほら、作品内の「キャラ」は作品外のメディアミックスには何の関係もないでしょう?
とまあ、例えばそういうことです。
キャラ/キャラクター」は、漫画という「絵と言葉とコマ割り(映画的カメラフレームの模倣?)」の、知らない人から見たらどう読んでいいのかわからない既存のメディアの混合状態を受け止めるにあたって、統一された思想や理念による合成ではなく、それぞれの描き手のそれぞれの手法によるミックスバランスが、それぞれの混合具合を良しとする受け手によって消費されてきたことで表現領域を拡大し読者を増やしてきた、という現実を受け止めた上で、その自由な現状を受け入れつつ整理し、新しい混合方法を旧来の読み手に、旧来の混合比率を新しい読み手に、それぞれ紹介し見通しをよくして行く、という形で使用されるべきです。id:tdaidouji:20060206の文章は今回はそういうふうに読んでください。
で、普通に読めばテキストという形で一元化されている小説に対し、「そのままでは読めない」という人のために「この描写は漫画の影響を受けているんですよ」という説明、注釈はできますし妥当ですが、そこに汎用性の薄い「キャラ/キャラクター」をわざわざ見出す必然性も価値も私は認めません。そんなもんは既に文章という形で一元的に連続している作品に亀裂を入れ分断し「データベース」とやらに加工するための方便です。データベースて言葉を使いたいためのマッチポンプ、と言ってもいいぐらいですね。例えば人間の身体をめぐる描写にばかり目が行けば、その他の描写における影響を無視し「稚拙な表現」扱いすることになるかもしれません。物語という枠組みを取っ払えば映像からの記憶が小説に埋め込まれるのは人間のそれだけじゃない。
あとはまあ、「まんが・アニメ的リアリズム」だけを特別視するのも変じゃないのかな。「映画的リアリズム」「絵画的リアリズム」「彫刻的リアリズム」何だってあります。視覚・イメージの記憶の引継ぎの研究としてイコノロジーとかの学問だってある。
あーあと、推理小説の「探偵」てのはそれこそ近代における神様なんだから、まんが的だろうとアニメ的だろうと何だろうと、とにかく「浮いて」なかったら嘘なんですよ。空中に浮いてるか浮世離れしたスタイルで周囲から浮いてるか、の差だと思っておけばいい。清涼院流水のそれって、要するに「推理とは浮いてみせるための手段のひとつに過ぎない。とにかく浮いてさえいれば探偵である」ていう批評の実践でしょ。だもん、「キャラ」にもなりますわな。
とまあ、そんな感じで宜しいでしょうか。