嵩峰龍二先生の話とか

ライトノベルの話はあんまり深入りしたくはないのだけど、例えば『アーク島年代記』の砂倉そーいちイラストと本文がイメージが重ならなくて困った、という経験はあります。一方で嵩峰龍二『雷の娘シェクティ』の末弥純イラストで「タカミネはそうじゃない! そうじゃないんだよ!」と叫び出しそうになったことも。
まあ挿絵と本文の雰囲気の差、ということで話が終わってしまうんですが、無理やりに話を繋げると、嵩峰龍二はどう転がっても日本の漫画・アニメのテイストだったなあとか。いや大長編ファンレターを朝日ソノラマに送ったぐらい大好きなんですけどね。「俺の作った設定」が好きすぎて読者すら置き去りにしてる作家としては世界ランキング1位じゃないでしょうか。いやだってさ、俺、未だに誰かに会うと時々この話をむしかえすんだけど、ソルジャークイーンシリーズの主人公の名前の話。あれ地の文だとシリーズずーっと通じて主人公のことを「ローザ」って書くんですよね。だけどさ、「ローザ」って1作目で使った偽名、しかも1作目は竜王の一人称だからローザって呼ぶしかないってだけで。2巻目以降の続編では三人称文体だし竜王登場しないから誰も「ローザ」って呼ばないし、もちろん本名でもなければ通り名でもない、その場にいない竜王だけが知ってる呼び名の「ローザ」を、作者だけがずーっと使うの。俺、『若き竜王の伝説』なかなか見つけられなかったからさ、どうして彼女の名が「ローザ」なのかずーっと不明のままで余程の謎が隠されてるのかと思ったら使い捨ての偽名ですよ。なんだろうこれと思って。「うがぁ厨房な展開すなー!」とか「うぎゃあハートマークを小説に入れるなー!」とか叫びながら呼び名の謎を追いかけて隅から隅まで目を通してそれかよ!いいじゃん「クイーン」で!って。そりゃファンになるしかないじゃないですか。(あれ?)
まあ俺の趣味嗜好はともかく、なんつーか読者も世間常識も作家の決めた設定(俺がローザと書いてるんだから本名も通り名も関係なくローザだ)の前にはひれ伏すしかない、というSF(と書いてライトノベルと読む)の掟を教えてくれた作家さんで。
逆にいえば、そういう形でガチガチに固めた世界設定が作者を支配しさらに読者の読みまで支配するのがファンタジーライトノベルであるなら、そうした「設定」が「キャラクター」を否応無しに浮かび上がらせるってのはあるんだろうな、とは思います。id:giolum:20060304#c1141511884で書いたことは半ば冗談だったんだけど、それを冗談じゃなくするなら「ライトノベルは<キャラ・世界観(設定)・文章>の3要素に分割できる」という言い方が出来るかもしれない、なんて。
ライトノベルにキャラなんて使うな」とか言っておきながら自分で使ってますけど、すみませんこういう奴です。
まあ、アニメや漫画の画像的な記憶から来る場合もあれば、世界設定がキャラクターを炙り出す場合もあるし、推理小説の探偵ていうキャラクター化することが宿命づけられてるのもあるし、とにかく文章内の階層構造化は一概にこれと言えないとは思うんですけど、それがメディアミックスの要請などから整理統合されていって現在の紋切り型の外観を構成するって考え方は不可能ではない、といったところでしょうか。